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橘さんは院内を自分の庭のように迷いなく、まっすぐに歩いて行った。そして、一般病棟よりも上階にある、静かな病室が並ぶ廊下を進んでいく。
やがて彼は一番奥の角部屋に入っていった。
眩しく差し込んでくる外の光は、彼の暗い影の印象だけを廊下に焼き付けていった。
ここはどこなんだろう。
廊下には誰もいなくて、話し声もしない。
さっき通り過ぎた待合室にも入院患者の姿はなかった。
静かすぎて不安になる。
「西野さんのお見舞いですか?」
突然、後ろから声をかけられた。
ドキッとして振り向くと、ベテランっぽい中年の看護師さんが包み込むような笑みを浮かべていた。
「いえ、ちょっと、橘さんに用事があって……」
「そう。橘くんは今、西野さんと面会しているから少し待った方がいいですよ。あちらの待合室でどうぞ」
「あの、すみません。西野さんって、どういう人なんですか?」
私が尋ねると、看護師さんは少し戸惑った表情をした後でいろいろと教えてくれた。
ここが末期がん患者の病棟で、あの角部屋にいるのは西野梓という私たちと同年代の女の子だということ。橘さんと彼女がどんな関係で、彼女が今、どんな病を抱えているのかということなどを。
「あの子、この病棟にいるのも今日で最後なの。明日からは緩和ケア病棟なんですって」
可哀想に、と看護師さんは言って、例の角部屋に入って行った。
言葉が出てこなかった。
自分とはあまりにもかけ離れた境遇にいる彼女に同情することもできなくて、ただただ茫然としてしまった。
それからすぐにさっきの看護師さんと橘さんが廊下に出てきた。二階堂が棒立ちの私の肩を抱いて柱の陰に連れていく。
何も考えられない数分間だった。
私のスマホが鳴っていることに気づいたのは二階堂の方だった。
「メール来てるぞ」
「えっ……?」
画面を見ると、橘さんから来るいつもの、交際をOKする文面が入っていた。
「おかしいな。あいつ、まだ廊下にいるぞ?」
二階堂が柱の陰から橘さんの様子を伺っている。
「あの病室の彼女が打ったんだ……」
そこで私は全てを悟った。
これはきっと、橘さんのためにやったことだ。
ああ、と叫んで泣き崩れたくなった。
あんな手紙、書かなければよかった。
あれを読んで彼女は橘さんを手放そうとして。
橘さんは彼女の気持ちを汲んで、諦めようとして。
だけど本当は、彼の気持ちは私のところになんてなかった。絶望して、死に向かってしまうほど。
彼の本命は、私じゃなかった。
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