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 ■  佐原健吾の長き悪夢の発端となったのは一年勤めた百科事典販売の仕事にある。因みに彼は三十三歳だった。勤務一年という期間を簡単にというべきか。大概の新入社員が半年も持たない会社で、佐原の在職一年は相対的にはけしてたったではない、と言えるかもしれない。    仕事は言わずと百科事典を客に売ることで、ネット通販などなかった時代の飛び込みの訪問販売だ。基本給は雀の涙程度しかなく百科事典一セット売る毎に数万円の報奨金が出る。今と違い景気の良い時代ではあったが、一セットニ十万もする百科事典などそう簡単に売れるものではなかった。    入社したては猫なで声だった紫色のソフトスーツを着た直属の上司も、一ヶ月も経つとその本性を現し一気に手厳しくなった。そこで佐原は暇を持て余した独居老人や昼間ひとりで留守番をしている年寄りに狙いを定め、何度も足を運び相手の懐に入ったところで言葉巧みに売りつける作戦を試みたのだが、勿論そう簡単には行くはずもなくそれ以前に彼は言葉巧みではなかった。  売上の上がらない新入社員は朝礼や終礼で尻を叩かれ急かされネチネチ嫌味を言われ、仕方なく先ずは親兄弟、次は親戚縁者に泣きついて売上を作り、最後はわけのわからない面子を保つために自分自身でローン購入する羽目になる。  大体そこまでで入社半年──そして後は自主退職という流れだ。会社が彼らを引き止めることはまずない。なぜならそこまでが会社が描いた絵であって、要するに随時募集中でほぼ全員合格の社員たちは、大方使い捨ての駒であり"飛んで火にいる夏の虫"ならぬ客なのであった。
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