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 ■  間もなくして佐原健吾は、紫スーツの上司の通りに、退職届けを提出した。  それは悪の組織にずっぽりと取り込まれている上司の突き上げに全面屈服したわけではなく、晴れて「泥棒」になるためである。正確に言えば佐原はすでに泥棒デビューを果たしていた。──彼が吸い込まれるように人様の家に忍び込んだあの日のことだ。彼は何とあの家から一掴みの札束を盗んだのである。  あの日佐原は玄関の中に入ると試しに「ごめんくださーい」「こんにちはー」と、奥に続く薄暗い廊下に向かって何度か声をかけた。──人の気配は感じられない。それでも佐原は一分ほど玄関先で聞き耳を立てていたが、家の中は水を打ったようにシンと静まり返っていた。  佐原はここで体の内部から何かに突き動かされたように靴を脱ぎ、とうとう上がり框に足を掛けた。そして毎日の歩き仕事で最大限にくたびれた靴の爪先を玄関に向けきれいに揃えると、まるで以前から計画していたように迷いなく薄暗い廊下を奥にズンズンと進んで行った。    屋内が多少暗くても彼には大体の間取りの予想がついた。ここ一年の訪問販売で販売成績には繋がらなかったが、お客の家に上がり込むまでは何度も成功した経験があったからだ。  普通そこまで行けばという作戦に持ち込み、晴れて「お買い上げありがとうございます」となりそうなものなのだが──。 「客に情けをかけるな!自分が金がないからと言って相手も金がないなどと思うんじゃねえ!大概の客はなあ、貴様よりはるかに金持ちなんだよお!」……とは、人間だった紫スーツの上司の弁だ。  佐原は毎日上司にどなられながら、自分の型崩れした合皮シューズを見ていた。靴のくたびれ具合と売上は正比例しない。所詮彼はお人好しで押しの弱い、最初からセールスなどという仕事には向いていない人間だったのだ。
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