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 ■  佐原健吾はシャワーを浴びた後、石鹸の残り香が浮遊する小さな部屋で一皿のカレーライスと向きあっていた。石鹸とカレーライスの匂いは壊れてしまった夫婦のように混ざり合うことなく悪戯に彼の鼻を交互に弄んだ。  そして石鹸とカレーライスの匂いは肩を押し合いへし合いせめぎ合う内にもはや石鹸の匂いのカレーライスとなったが、佐原が一旦手を付けるとそれはあっという間に彼の胃袋に収まった。    スプーンを皿に置く音がしんと静まり返った部屋に響く。佐原は自分が立てたその音で目が覚めたように我に返った。皿に目をやると黄色く染まった飯粒が二三粒、極小のヤモリのように皿の隅っこにへばりついている。     皿にへばりついた飯粒を眺めて彼は思い起こす。自分はチンケな泥棒ではなかったか。空き巣狙いの限りなくチンケなこそ泥だったはずだ。それなのになぜ自分はこんなところにいるのだ……。    この場に及んで意地を張るわけでもなかったが彼は最後の二三粒の飯粒を皿にへばり付かせたままにして、試しに憐れな自分を慰めるように未だ悪夢の中にいるのではないかと、わずかな残り時間の中で自分を囲む状況や状態の全てを今一度疑ってみた。   これは長い長い悪夢である。  これは途方もなく長い悪夢である。  現実なんかであるものか。  佐原はここ十年の歳月、来る日も来る日も巨大な迷路を繰り返し彷徨い続けた。片手でザラザラとした壁を撫でながら迷路を伝い出口を求めて彷徨う。しかし探せど探せど出口は一向に見つからず、いつの間にかスタート地点に戻るのだ。恐ろしさに、全身から血が吹き出るくらい大声で喚いてみてもどこからも助けは来ない。──壮絶な孤独と絶望と恐怖を繰り返す内にやがて長いような短いような十年が経ち、彼は精魂尽き果てた。  好物だったカレーライスを食す極短い静かな時間が終わり、飯粒のへばり付いたカレー皿の次に佐原の前に現れたのは制服を着た男の背中だ。落ち窪んだ瞼の奥の濁った池の水よりもずっと不透明この上ない佐原の目は、前を行く男の背中に向けられてはいるが、もうその虚ろな目は何も見てはいないのだった。
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