孔子と朱子

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孔子と朱子

「あー、とうとう出くわしちゃった。洪さんを嫌っている人があそこの席に座っているのよ」  クレオパトラが心配そうに、孔子と犬猿の仲という男に視線を送った。俺がその視線の先を追うと、さっきから話し声がうるさい実業家然とした男と同席している男の姿が目にとまった。そいつも顎鬚を蓄えている。雰囲気が孔子に似ている。話し相手の、声がでかいオッサンは実業家然と言ったがどちらかといえば右翼チックなオヤジだった。 「雲谷元(くもたにはじめ)さんて言うの。やっぱり大学教授で、最近テレビでちょこちょこコメンテーターとして露出をはじめた人」  さすがの俺もその髭面に見覚えはなかった。もしかしたら最近更生プログラムを終えて、娑婆に出てきた異邦時者かもしれない。気づかれないようにスマホを髭面にむけてカメラ機能を起動させた。  顔認証システムが男の名前を検索する。すぐに答が出た。  男は朱熹(しゅき)だった。  新儒学とも呼ばれる朱子学の創始者だ。孔子と同じような尊称で呼ぶとしたら「朱子」だ。  大義名分を金科玉条とする多分に衒学的な気味ある学派だが、幕末の尊皇攘夷論の尊皇攘夷という言葉はこの朱子学から出ている。  中華帝国「宋」にあって夷狄である「金」や「元」を(えびす)、すなわち野蛮人であるとして、宋の皇帝こそが尊ばれるべき「華」であると説き、皇帝を尊び、夷を打ち払う、ということから生まれた思想が尊皇攘夷だ。  あまり実のある学問とも言えないが、時代を沸騰させる熱を持っていたのだろう。だが、朱子学も儒教の一派ではある。なぜ孔子と朱子の仲がよくないのかは、俺にもちょっとわかりかねる。 「訓詁注釈など、世の役にはたたんよ! 字句の解釈や古典の暗記など無意味、無意味! 典雅な文章や詩文の作成能力でいざというとき国を守れると思うかね君は」  朱子が隣の右翼チックなオヤジにひときわ大きな声で話し出した。  おそらく孔子の入店を知ったのだろう。朱子が孔子の正体を知るわけはないが、テレビの露出が多いから孔子の主義主張を見聞きしてはいるはずだ。それが癇に障っているのかもしれない。朱子の声には敵愾心の酒精分が混じっていた。  孔子が自分についたホステスに朱子を見ながら耳打ちした。ホステスも朱子に視線を向けて首を振っている。きっとあれは誰だと聞かれて、知らないと答えたのだろう。  孔子の手がホステスの太腿の上に載せられている。  孔子は好色について積極的な否定をしていない。その点、儒教とクラブ活動は両立するのである。 「大義名分をかかげて、いずれが正邪かの区別をつけることで善悪をキメツケる空理空論があったが、あれは朱子学とかいったか? あんな虚学がもたらす社会的弊害の大きさたるや、私はそれを表す言葉を知らんね」  孔子もひときわ大きな声を張り上げた。テレビで朱子の思想を見知っているに違いない。さっきの朱子の言葉に自分への敵愾心を察したのだろう。近親憎悪とでも言えばいいのか。結局、似たもの同志なのだ。 「『漢唐訓詁学』など所詮は自ら手を汚すことを恐れる聖人をつくるだけの、秩序を後生大事にする小役人のための学問にすぎん!」  朱子の言葉は、孔子にとっては自分へのあてつけとしか思えないはずだ。 「現実を見ず、華夷にこだわる上下の差別で他者を見下すのが救国の学問か?」  孔子も唾を飛ばしながら、朱子にむかって叫び始めた。 「儀礼に詳しくて、作法を心得ていることが国の危難において何の役に立つ? おまけに自分の教えを先人の教えより上に置くために、古に範を求めるなど所詮は猿真似。それを隠すために小難しい言葉を並べ立てよって!」  孔子が立ち上がり、朱子にむかってグラスの酒を浴びせようとしたが、それが高価なブランデーだったので、ミネラルウォーターの入ったグラスに持ち替え、それを朱子にぶっかけた。 「何をする!」  髭の先から水をしたたらせながら朱子も、孔子に反撃した。  テーブルの上のナッツを握り締め、孔子に投げつけたのだ。節分の鬼よろしく豆をくらった孔子が鳩のように首を伸ばし、右に左に顔を振った。  孔子と朱子が互いの髭を引っ張り合い、顎を上にむけて口から唾を飛ばす様を見ながら、俺はクレオパトラに言った。 「店が有名になると、こうしたことが起こるんだな」 「そうねえ。太いお客さんをつかまえるのは大事なことだけど、ちょっと考えものね。紹介制にしている意味がなくなっちゃうわ」 「本人ではなく、常連客が連れてくるから、誰がくるかわからないんだ」  頷いたクレオパトラが、再び常連客が入ってきたらしい入口に顔をむけると、その目が大きく見開かれた。誰が入ってきたのかと入口を見た俺の目に高級そうなイタリア製の三つ揃いに身を包んだシーザーの姿が飛び込んできた。  クレオパトラが愛したローマの英雄だ。最近名前の売れてきたファンドの代表に連れられてきたようだ。更生プログラムを終えて、銀座のクラブにも顔を出せるようになったのだろう。クレオパトラの顔が耀き、次の瞬間、目一杯暗くなった。
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