乱戦

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乱戦

 シーザー一行のあとから店に入ってきた男が、アントニウスだったからだ。 「まずいわ」クレオパトラがつぶやいた。  確かにこれはまずい。俺も思った。いや、それは今飲んでいるカクテル「クレオパトラ」の味のことではない。  せっかくだからこのカクテルのレシピを記しておこう。ホワイトラム25mlにクレームドモカ20ml、生クリーム15mlとナツメグパウダーを適量だ。  クリームのおかげで口当たりがいいが、キックは強い。知らない間に腰にきている酒だ。クレオパトラが客を落とすときに甘い言葉と一緒にこのカクテルを出すことが多い。  話が脱線してしまった。クレオパトラがまずいと言ったのにはわけがある。クレオパトラにとってシーザーの次の男がアントニウスだったからだ。クレオパトラがアントニウスと関係をもったのはシーザーの死後だから、倫理的な不貞にはあたらない。しかし、英雄という奴は色を好むし、自尊心が肥大化しているから、理性的な判断が出来ない可能性がある。この二人はかちあわないほうがいい。クレオパトラもそう思ったらしく、ホステスをシーザーとアントニウスの一行にそれぞれ差し向けると声を潜めて俺に言った。 「ちょっと隣の中華料理屋に身を潜めるわ」  この店の隣にある高級中華料理店は「楊貴妃飯店」という。お察しのとおりオーナーは楊貴妃だ。スリットの深いチャイナドレスがこれほど似合う女を俺は知らない。シーザーとアントニウスの目を盗んで、クレオパトラは絨毯に身をくるんでボーイにかつがれて店の外へ出て行った。  孔子と朱子は罵倒の応酬を続けている。その横で、吉田茂が、南原繁東大総長に向かって「曲学阿世の徒」と罵っていた。  さらに客が入ってきた。その客の顔を見たバディのミレーユの顔色が変った。  俺はスマホで顔認証をかけた。店に入ってきたのはフランスの司教、ピエール・コーションだった。  その個人情報を読み込んで俺はミレーユの顔が強張ったわけを知った。すぐさまミレーユの腕をとって軽はずみなことをするなと忠告した。ミレーユも実は異邦時者なのだ。本名はジャンヌ・ダルク。店に入ってきたのは、イングランドと通じてジャンヌ・ダルクを異端審問にかけ、異端と貶めて火あぶりに処した男なのだ。  ミレーユは腰に手をやったが、もちろんそこに剣はない。かわりに水割り用のピッチャーを掴むと、入ってきたピエールの顔面にそれをたたきつけた。  ピエールは鼻血を噴き出しながら、その場に蹲る。ミレーユはその頭の上から近くのテーブルに乗っていたミネラルウォーターを次々と降り注いだ。火刑には水刑ということか。  隣の店からボーイが駆け込んできて、クレオパトラと楊貴妃が取っ組み合いになっているから仲裁してくれと泣きついてきた。ミレーユの気持ちも分からぬではないので、彼女の好きにさせることにして、俺は店を出て隣の高級中華料理店に行った。楊貴妃がクレオパトラにカクテルをぶっかけていた。ちなみのそのカクテルは「楊貴妃」という。  レシピを記しておこう。桂花陳酒30mlにライチ・リキュール10ml、グレープフルーツ・ジュース20ml、ブルー・キュラソー1tspだ。  そうだ、大事なことを忘れていた。「クレオパトラ」も「楊貴妃」もシェークする。ステアではないので覚えておいて欲しい。さらに言えば、どちらのカクテルもショートグラスに注ぐ。バーに行ったときの心覚えとして、カクテルはショートが十分、ロングは十五分くらいを目安にして飲めばいい。それから、大勢でバーにおしかけるのはご法度だ。バーでは三杯くらいできれいに切り上げることも覚えておいてもらいたい。  楊貴妃とクレオパトラの前で短躯で小太りの、さえないオタクっぽいオヤジがオロオロしていた。ボーイが言うには、この男がクレオパトラに色目を使ったということで楊貴妃が怒り出したというのだ。俺はスマホで顔認証をかけた。  ははあ~。  男は、玄宗皇帝だった。傾城の美女と言われた楊貴妃を寵愛した皇帝だ。それにしても異邦時者保護プログラムはちゃんと機能しているのか? 利害関係者を接近させないように設計されているはずなのだが、さっきからの出来事を見ていると、どうも正しく動いていないように思える。  とにかく、今宵のドンチャン騒ぎはすでに俺ひとりの手には余るほど広がってしまった。俺は管理局に応援依頼の電話をかけた。オペレーターが出た。 「こちら異邦時者保護監察官の千石、銀座の『槍直しビル』七階で異邦時者同士の不期遭遇による乱闘が発生。事態沈静化のために至急、応援を要請する」 「管理局です。了解しました。こんな遅い時間に面倒なことですね」 「何を言う。こんな時間だからこそ起こるんだ」 「そうなんですか」 「そうだ。聞いたことあるだろう? 『歴史は夜作られるんだ』」 「なるほど」オペレーターが妙に感心して一端、通話を切った。
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