第4話 ミント

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第4話 ミント

足元から懐かしい香りがする。 一義は、風呂から上がりうつらうつらしていたベッドの上で目をさました。 ああ・・・由紀子の香水の香りか。遠くから男2人の話し声が聞こえるが、一義はまどろみながら初夏の風のようなミントの香りに引きずられるように夢に引き込まれる。 「あら、やーだ、死んだ人間見るような顔はやめてよ」 台所で40歳にして、内臓の病に罹り手遅れのため医者からもらった大量の薬を飲みながら顔色が白くなった由紀子が、振り返って笑った。 7歳になる息子の義雄は、まだ小学校から帰っていないようだ。 妻の由紀子が余命5ヶ月を宣告されてから、一義は午前に早退する事が増えた。ありがたい事に時代はバブルで、早退も有給はいくらでも課長の一義は連日とっても文句も言われない。 妻の病気が発覚してから、部下達に心配され、毎日のように見舞いの品が届く。特に妻が好きな羊羹とミントの紅茶が。 「義雄がかわいそう・・・生きたい」 由紀子が余命を告げられた日に、病室で声を押し殺して一義の前で泣いたのは、後にも先にもあの時、1度限りだ。 「し、仕事が早くすんでな、義雄を連れて銀座のデパートにでも行かないか?」 嘘が下手な一義を見抜いてか、由紀子は眉間にシワをよせながらも嬉しそうに笑っている。 「そうね、義雄も今日は午前授業だし、お昼を食べたら3人で行きましょうか」 台所からは、秋刀魚の良い香りがする。昼食と夕食を昼間にいっぺんに作ること、細い体にしては1日中、家事をして家の中を歩き回っていること、義雄が帰ってくると必ず1度は抱きしめること。 由紀子が病に罹り、一義が仕事を早退したり有給して分かった事だ。 結婚して15年も過ぎていた。心の中で何度も後悔した。妻が体調を崩すきっかけも、顔色が悪いことも、義雄の学校に出られない事も、最初は甘えだと思っていた。 「もっと、ちゃんと家を守ってくれ」 強い口調で一義が責めても、由紀子はごめんなさいと穏やかに笑うだけだった。 「おとーさん!」 気がつくと、義雄が小学校から帰って来ていた。両親がいる家に義雄はニコニコしながら帰ってくる。 すでに由紀子は、銀座に行くために少し高い茶色のワンピースのよそいぎを着ていた。 「義雄も着替えなさい。今日はお父さんが銀座に連れて行って下さるって」 由紀子が言うと、義雄は無邪気に自分の部屋に走って行く。 由紀子の強い希望で、義雄には由紀子の余命も告げていない。 私がこの世界からいなくなるまで、義雄には当たり前の日常を送らせてあげたいの。由紀子は薬を義雄が見えない台所の戸棚に入れながら、口癖のように言った。 「おとーさん!オムライス食べたい!」よそいぎのワイシャツと短パンを着た義雄がニコニコしながら一義を見上げていた。 「ああ・・・そうだな。母さんの好きな羊羹も買って帰ろう」 贖罪に近い気持ちで、絞り出した声だった。 銀座のデパートに行く途中の小さな化粧品の店で由紀子が足を止める。「あら、珍しい、ミントの香りの香水ですって」 女性のファッションや化粧品に関してはさっぱりの一義だが、物欲のない由紀子が珍しく見ていたので、一万のミントの香水を買ってやった。 後々、それは輸入品の香水でなかなか手に入りにくい香水だと由紀子が亡くなってから知る。 それから、毎日のように由紀子はミントの香水をつけていた。 爽やかな、初夏のような香りが由紀子が亡くなる10ヶ月後まで家の中で香る。 ふと、目が覚めると家の中が静まりかえっていた。 「夢か・・・」 一義が呟くと、足元からミントの香りがした。 そういえば、さっきまで義雄くらいの年齢の男が、一義の足を撫でていたような気がする。 彼は誰だったのだろうか。 一義は、またミントの香りにいざなわれるように静かに、わずかな微笑みを口元に残し、浅い眠りについた。
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