玉藻前の隠し子

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「……あ、カマキリだ」 わざわざ口に出して言う必要は微塵もないのに、阿比留(あびる)響生(ひびき)はわざと声に出して言った。 この行動には正当な理由がある。 木々に囲まれた無人駅ーー井野坂(いのざか)駅は、2両編成の電車が行ってしまうと、人の声はおろかほとんど音自体がなくシンと静まり返り、少し気を抜くとなんだかどこかに落ちていってしまいそうな感覚に陥ったのだ。 ぼーっと見下ろしているだけなのに、生まれて間もないだろう透明なカマキリは瞬時にこちらの気配に勘づくと、すかさず両のカマを振り上げておそらくは生まれて初めての威嚇をしてきた。 「んだよ。お前なんか、どうせちょっと大きくなったらハリガネムシに寄生されるくせに。んで成虫になったら脳を支配されて水辺に誘導されて、ケツから内臓を傷つけられながら出てくるハリガネムシに殺されるくせに」 「なにひとりでブツブツ言ってんだよ」 しゃがみ込んだ響生の背中をバンバンと父が叩くので、危うくカマキリを孵化した初日に踏みつぶしてしまうところだった。 「やっぱり田舎は空気が美味いなぁ!な!響生!」 くたびれたスーツ。 よれよれのネクタイ。 白髪が混じってきたツーブロックの頭。 東京駅にいたらいたで、都会の喧騒に飲まれたくたびれた中年なのだが、東北の無人駅に降り立ったら立ったで、田舎で燻ぶり続けた中年男にも見える父の芳樹は、胡散臭く親指を立てて見せた。 「ここならきっと、母さんの病気も良くなるさ」 響生は深いため息をつきながら、線路に迫ってくるような山々を見上げた。 「あれ、この切符って捨てていいのかなぁ?勝手がわからねえ」 ギリギリ30代だというのに薄くなってきた頭を掻きながら歩く父に続く。 と、無人の改札にある券売機の横に、なぜか錆びついた鏡が掛けられていた。 「……」 何とはなしに覗き込むとそこには、田舎の無人駅にいる高校2年生としてふさわしい、華やかさとは無縁の地味な男子高生が映っていた。 「……髪でも染めよっかな」 どこかでウグイスが鳴いていた。
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