約束

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半年前、八年付き合った彼氏と別れた。 原因は浮気。 それも一度や二度ではない。 三度や四度でもない。 その度に別れ話をしたけれど、最終的には元の鞘に収まる。 お金と女性にだらしが無く、いい加減で時々約束もすっぽかす最低な男。 なのに、何故か憎めない人だった。 ようやく決心をして彼と別れ、私は彼と暮らしたアパートから引越した。 携帯電話も解約した。 もちろん、新居の住所も電話番号も教えていない。 最初は大変だったけど、今は新しい生活にも慣れた。 しかしある日、知らない番号から電話が掛かってきた。 会社の人だろうと思った私は、何の躊躇いもなく通話ボタンを押した。 「もっしもーし。元気か~い?」 すぐに分かった。 彼の声だと。 「あれ、聞こえてる?もっしもーし」 「どうして知っているの?」 「良かった。ちゃんと繋がった。」 「なんで私の電話番号知っているの?」 「ごめん。お友達に聞いたんだよ。どうしても君に連絡が取りたくて」 「私達、もう別れたでしょ」 「そうなんだけどね。これは君にしか頼めないことなんだ」 「そんなの、ゆいって子に頼んだらいいじゃない」 「ゆいちゃんはダメなんだ」 「どうして」 「出て行っちゃったんだよ。もう一ヶ月になるかな」 「また浮気でもして、愛想尽かされた?」 「浮気はしていないけど、愛想は尽かされたのかもしれないね。ハハハ」 「それでなんの用」 「マロンを預かって欲しいんだ」 マロンとは彼が飼っている犬。 亡き妹から生前に託され、私も面倒を見ていた。 茶色い毛並みのトイプードル。 お利口で、とても人懐っこくて可愛い子だった。 「一ヶ月でいいんだ。君の方で面倒見てほしい」 「どうして」 「今週末からひと月ほど、用があって部屋を空けることになってね。その間、マロンを構ってやれないし、ご飯も食べさせてやれないんだ」 「マロンの事は好きだけど、半年も前に別れた彼女に頼むことなの。それに、私はあなたに会いたくないわ」 また寄りを戻してしまいそうで。 彼はいつだって結婚を望まない。繋ぎ止める事が出来ない。 まるで子犬みたいに、すぐに知らない女の子から可愛がられる。 最初は見て見ぬふりをしていたけれど、今はもう無理。 嫉妬で狂いそうになる自分がいる。 「僕のことが嫌い?」 嫌い。とハッキリ言えない自分が情けない。 「僕は好きだよ。今でも君のこと」 「ふざけないで」 「僕らは別に、不仲で別れたわけじゃないだろう。寄りを戻すことだって……」 「いい加減にして!」 「ごめんごめん。とにかくマロンの事を頼むよ。ひと月でいいんだよ。ひとりぼっちでご飯も食べられないなんて可哀想だろ? そんなこと、君は見過ごせないよね」 「相変わらず、ずるいね」 「ごめんね。会いたくなければそれで構わないよ。部屋の鍵、鉢植えの下に置いておくから」 「ひと月だけだからね。約束よ」 「ありがとう。助かるよ。それじゃ、またね」 そして電話は切れた。 翌日、半年ぶりに住んでいたアパートへ向かった。 玄関に並んだ鉢植えを持ち上げると、部屋の鍵が置いてあった。 それには小さな銀色の鈴がついていて、それは私が部屋を出ていく時に書き置きと一緒に机の上に残した自分用の鍵だった。 「部屋の鍵とか変えてないんだ」 今でも君が好きだ、と言った彼の言葉が脳裏を掠め、私は何度も首を振って払拭した 半年ぶりに入る部屋。 彼は出掛けているようで安心した。 奥の寝室からマロンが顔を出した。 私の顔を見るなり飛んできた。 はち切れんばかりに尻尾を振りながら。素直に嬉しかった。 「マロン久しぶり。元気だった?」 私はマロンを抱き締め、半年分の愛情を込めて撫で回した。 一方、マロンは私の顔を舐め回しながら喜んでいた。顔は唾液塗れになった。 部屋の中は出て行った時と何ら変わりはなく、相変わらずグルメ雑誌や漫画本が散乱していた。 半年しか経っていないのに、すごく懐かしさを感じた。 彼と過ごした日々を思い出すと、涙が出てくる。 吹っ切ったはずの想いが未練となって現れそうになった。 床に置かれたキャリーケースを見つけ、私は手に取った。 中にはマロンのおやつがたくさん入っていた。 私はマロンをキャリーケースに入れると、部屋の鍵もまた鉢植えの下に置いて帰った。 マロンは私の部屋にもすぐに慣れ、部屋にはマロンの物が日に日に増えて行った。 そして約束のひと月を、私はマロンと暮らした。 この半年、部屋に帰ってきても真っ暗で、おかえりと言ってくれる人も待っていてくれるペットもいない孤独さを感じていた。 今はマロンが待っていてくれる。 仕事が終わってクタクタになっても、早く家に帰りたいと願ってしまう。 妹さんの忘れ形見であるマロンを、彼が手放すことはないだろう。 マロンを彼に返したら、私も何か飼おうかな。 なんて思っていた。 それから、ひと月と十日が過ぎた。 頼み事を電話してきたあの日以来、向こうからの連絡は一切ない。 それはそれで良いと思っていたけれど、約束のひと月をすでに十日も過ぎているのに一向に連絡がなく、一体どうなっているのかと、仕方なく私の方から電話をかけることにした。 しかし、呼出音が鳴るだけで、繋がったのは留守番電話サービスだった。 私はメッセージを残し電話を切った。 約束の期日はもう過ぎていると。 少しして、彼から電話が来た。 「ごめん、ごめん。忘れていたわけじゃないんだよ。ちょっとね、予定が延びちゃったんだ。だからさぁ、悪いんだけどもうしばらくマロンの面倒お願いしたいんだ」 「また嘘をつくの?」 「嘘だなんてひどいなぁ。僕は、嘘は言わないよ。本当に予定が延びただけさ。もう少し頼むよ」 「マロンだって寂しがってるのよ」 「大丈夫。君がいるから。マロンは寂しくなんてないよ」 「無責任なことを言って」 「マロンも君が大好きだからね。だから、頼むよ」 「もう少しってどれぐらい」 「またひと月ぐらいかな」 「わかったわ」 「君は本当に優しいね。それじゃあ、またね」 電話は一方的に切れた。 彼は一体どういうつもりなのか。 もしかして、マロンまで捨てる気なの? そんなこと許さないんだから。 それからまたひと月、マロンと一緒に暮らした。出費は増えたが、三人の時よりはまし。それに何より楽しい。 だけど、これから仕事が忙しくなれば、家にマロンを一人にすることも多くなる。あんないい加減な男でも、マロンの面倒はしっかりと見ていたし、とても可愛がっていた。 だから、早く迎えに来なさいよ。 とそう思っていた。 しかし、約束のひと月が経っても彼の方から連絡はなく、またこちらから電話を掛けることになったが彼は電話に出ず、また留守番電話に繋がった。 仕方なく、私はまた留守番電話にメッセージを残した。 前と同じ。 すぐに折り返してくると思っていた。 けれど、半日過ぎても電話は掛かって来ず、一日経っても、三日経っても彼からの電話はなかった。 もう一度電話を掛けたが、やはり留守番電話に繋がるだけだった。 マロンが心配そうに鼻を鳴らしながら、私の顔を見上げていた。 そこで、私は彼のお義母さんに電話を掛けた。 お義母さんならきっと、彼の居場所がわかると思ったから。 お義母さんはとても優しい人で、私を娘のように可愛がってくれた。 料理もたくさん教えて貰ったり、二人で買い物に出掛けたりするほど、関係は良好だった。 彼と別れてからは、何となく気まずくて連絡することが出来なかったけれど。 何回かの呼出音が鳴った後、「もしもし」というお義母さんの声が聞こえた。 「お久しぶりね。元気だったかしら」 その口調は変わらず、穏やかで優しかった。 私は今まで連絡しなかったことを詫びた。 すると、お義母さんは私の気持ちをわかってくれていたようだ。 彼から別れた事は知らされていたようで、その原因も知っていて逆に謝られてしまった。 それを踏まえて、私との関係は今まで通り続けて欲しいと切望された。 また一緒にお買い物や食事がしたいと。 私は快く承諾した。 その後、私はお義母さん本題を話した。マロンを預かっていることを。 お義母さんは動物アレルギーで引き取ることは出来ないと分かっていた。 だから、彼の居場所を聞くことにした。 けれど、それを尋ねた途端、お義母さんは口を噤んだ。 私の判断で教えて良いのかと、迷っているようだった。 けれど、マロンの件がある。 マロンは彼の妹の愛犬だった。お義母さんにとっては娘の愛犬ということになる。 他人の私よりも、彼の元で暮らした方がマロンの幸せのためでもあると。 すると、お義母さんはとある住所を教えてくれた。 息子はそこにいるからと。 私はお義母さんに感謝して電話を切った。 次の日曜日、私はお義母さんから得た住所に向かった。 そこは大きな病院だった。 「女の子に殴られて怪我でもしたのかしら」 と、心配なんて微塵もしていなかった。 受付で名前を記入し、私は彼が入院する病室に向かった。 そこは大部屋で、入口の名札には彼の名前があった。 そんなものを見なくても、病室の中から聞き覚えのある声と少し枯れた女性の笑い声が聞こえてきた。 病室に入ると、奥で椅子に座った二人の高齢女性がベッドの方を向いて談笑していた。 彼の声はその二人が向いている先から聞こえる。 私が近づくと、二人の高齢女性がこちらを向いた。 「あら、お見舞い?」 「あら、可愛い子。彼女かしら」 窓際のベッドの前に立つと、そこには患者服を着た彼がベッドの上で胡座をかいた。 私の顔を見て、彼はすごく驚くと同時に笑みを浮かべた。 しかし、私の方は戸惑っていた。 なぜなら、彼の顔が以前と変わっていたから。 頬はこけ、目の下にはハッキリとした隈ができ、元々細身であった彼の体がもっと細くなっていた。 「よくわかったね。ここにいるって。テレパシーか何かかな」 彼は浮気がバレた時と同じような苦笑いを浮かべた。 「ふざけないで。嘘ばっかりついて」 「嘘じゃないさ。本当なら、先月退院する予定だったのさ」 「あら、こんな可愛い彼女に黙ってここに来たの? それじゃ、心配するわよね」 「怒って当然よ」 「い、いえ、私達はもう別れているので……」 「あらそうなの。お似合いなのに勿体ない」 「だってさ。照れちゃうね。僕達、寄りを戻そうか」 「戻さない!」 「あらら」 「それよりマロンのこと」 「あー、うん。わかってる。僕だってマロンに会いたいさ。けど、まだここを出られないんだ。退院したら、すぐに迎えに行くから。それまで頼むよ」 「それって何時なのよ」 「まぁ、あと一ヶ月ぐらいじゃないかな」 「信用できないよ」 「アハハ。それは困ったね」 彼は困ったように笑った。 そんな笑顔を見る度に私の心はむず痒くなって、許してしまう。 今も愛しくて、胸が苦しくなった。 「最後よ。あと一ヶ月だけだからね」 「ありがとう」 私はもう少しだけマロンの面倒を見ることにした。 必ずマロンを迎えに来て欲しいと約束して。 けれど、彼はマロンを迎えに来なかった。 それは約束の日の一週間ほど前、深夜に彼の方から電話が掛かってきた。 「どうしたの、こんな夜遅くに。マロンの引き取り日決まったの?」 「ううん。それはまだ」 「まさか、また頼み事じゃないでしょうね」 「うーん。近いけど、ちょっと違うかな」 「じゃあ、何?」 「ちょっとね、君の声が聞きたくなったんだよ」 「もっと他にいるでしょ。私じゃなくたって、可愛い声の子が」 「あー、ナナちゃんかぁ。懐かしいなぁ。声優目指すと言っていたんだよ。元気にしているかな」 「切るわよ」 「待って、待って。聞きたいのは君の声なんだって。言ったろ。僕は今でも君が好きだって」 「寄りを戻したいだなんて言わないでよね」 「……」 電話の向こうに沈黙が流れた。 いつもなら冗談でも言って返すというのに。 「言わないよ」 彼には珍しく沈んだ声がして、私は少し胸騒ぎがした。 「ねぇ、大丈夫なんだよね」 「心配してくれるの。嬉しいよ。君との約束、いつも守れなくてごめんね」 「ほんとよ」 彼と初めて会った時、彼からその場で付き合って欲しいと言われた。 子供のように目をキラキラさせながら、僕が幸せにするって。 彼がもてることもわかっていたし、浮気といっても彼が相手に抱いていたのは恋愛ではなく、友愛であることはわかっていた。 こんな私でも、人並みの嫉妬心はあった。 彼と女の子が腕を組んで歩いていても、それは女の子が無理矢理に彼の腕に絡みついているのは見てわかった。 でも、彼はその腕を払い除けることもせず、嫌がる素振りすら見せない。 すれば、女の子が傷つくとわかっていたから。 でも、その姿を私が許せなくなっていった。 平然を装いながら、胸の中では嫉妬が塵となって積もっていった。 大好きだったから。 でも、今はもう終わった話。 「マロンのことは頼んだよ」 「わかってる。ちゃんと迎えに来てよね」 「ありがとう。それじゃね」 そう言って電話が切れた。 しかし、それが彼との最後の電話だった。 しばらくしてお義母さんから電話が掛かってきた。 彼が亡くなった、と。 それを聞いた時、彼が仕組んだ冗談だと思った。 悪いことをして私に許しをこうための「嘘」や「言い訳」だと。 けれど、電話越しの震えるお義母さんの声を聞いて、私の心も深く沈んでいった。 そして、気づいたら頬を涙が伝っていた。 その時、ふとある事を思い出した。 それは彼から最後に掛かって来た電話。 彼はいつも「別れ」の挨拶はしない。 いつも「またね」と言って、次会うための小さな約束をして別れた。 それは私に限らず。 彼はあの時、「またね」とは言わなかった。 彼自身、わかっていたのかもしれない。 それに、彼はお義母さんにこう伝えたそうだ。 「母さん。悪いんだけど、もし自分が死んでも、周りには知らせないでくれ。もちろん葬式になんて呼ばないでくれよ」 「どうして?」 「湿っぽいのはガラじゃない。見送りは母さん一人で十分さ」 「でも、あの子(私)にだけは知らせた方がいいんじゃない」 「そんなこと伝えたりしたら、泣いちゃうだろ。まぁ、マロンの事もあるし、落ち着いたらでいいよ」 それを聞いて、私は恥じらいもなく泣き叫んでしまった。 私はやっぱり彼のことが好きだった。 なんて勝手なんだろう。私から離れたというのに……。 もう二度と、会えないというのに。 だから、せめて約束だけは守ると私は誓った。 それから数ヶ月が経った。 今もマロンは私の部屋で一緒に暮らしている。 これからもずっと私が大切に育てていく。 いつの日か、彼や妹さんが迎えに来るその時まで。
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