もう一度……。

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悲しい夢を見て目覚める事が最近多くなった気がする。現実世界でこれと言った寂 しい出来事があった訳では無いんだか、何故かいつも同じ夢を何度も繰り返し見て いるんだ。夢の中の男は俺とは別人のようで、白髪の混じった頭は到底大学生とは 思えず、現実の年齢よりもかなり上に見えるんだよな。傍には一人の女性が寄り添 い優しい笑顔を男に向けている。でも女性の顔に見覚えは無い。親族や知人の記憶 を片っ端から頭の中に広げてみても該当する資料が見つからない。なのに会った事 さえ無いはずの彼女の名前が頭の中に思い浮かんでくる。河井美佳……世間を騒が せた有名人でもなければ漫画のキャラでもない。当然の事だが同姓同名の知人が居 て記憶の片隅に残っている訳でもない、でも何故かこの名前で彼女を呼ぶ事がごく ごく当たり前の事なのだと確信できてしまう。夢の中での二人はいつも病室で見つ め合っていた。彼女は重い病に体を侵されていて、残された寿命も僅かなのだとせ ん告を受けていた。だが男に対し絶えず笑顔を向ける姿は見ていて辛い。でもこん な事じゃ駄目だと……彼女を悲しませない為にも笑い続けなきゃ駄目なんだと…… ささいな不安も抱かせない為にも、君だけを愛し続けると約束し安心させなければ いけないんだと……そう心に誓う夢の中の男……。その気持ちは痛い程分かる。 誰でもいいから美佳を助けてくれ、お願いだ! おい死神、居るなら聞け! 美佳 より俺の命の方が大きいだろ! 持って行くなら俺の命にしろよ! 頼むからひと りにしないでくれ! 夢はいつも彼女が息を引き取る場面へと繋がる。どうしよう もない状況が繰り返される度に、泣き叫び、放心し、嗚咽を漏らす男。この世の不 幸の全てを肩に乗せられた気分で目を覚ます。その後は再び寝るなんて無理だ。む せび泣き、目を腫らした状態で朝が来るのを待つ。最初はただの悪夢だと思ったの に、何度も繰り返し見るようでは無視できない。人物の名前や住所は分かるから、 なにか原因があるなら取り除かないと俺の心が耐えられない。夢の場所に行けばき っとヒントが見つかるに違いないと、そう考え実際に行った事もあったが、今にし て思えば冷静さを欠いてたよな。確かに夢の中と同じ住所はあったけど、そこには  欲しいヒントなんて無かった。そりゃそうだ……夢の中の男が住む時代は『昭和』 しかも『四十年』……仮に夢が現実と何らかの繋がりがあったとしても、街ぜんた いが変わっていても可笑しくない。そもそも夢と同じ建物があって、女性の親族だ と思われる人物が住んでいたとしてどうする気だったんだ? 「あの~……少しお 願いがあってお伺いしたんですけど……俺に悪夢を見せるのやめて頂けませんか」 って話すつもりだったのか? 完全に通報される案件だろ。睡眠不足が続くと誤っ た思考が脳内を埋め尽くすみたいだな。このままでは私生活でも奇妙な行動を取り あぶない人物だとレッテルを貼られかねない。まずは十分に眠る方法を考えないと な……幸せな気分で脳内を満たして、悲しみや苦しみ等の感情が入り込む余地をあ たえなければいいだけの話なんだが、言う程簡単な事ではない。物心が付いてから の十云年、リア充などと言った言葉とは無縁の生活をしてきたからな。おかげで炊 事、洗濯、その他諸々の彼女要らずスキルを神から与えられた訳だが、大事な何か を失った感が半端ない……。仕方ない……暫くは薬に頼るとしよう。 世の中が春の気配に浮かれる頃、校内でも例外なく密な状態が発生していた。中庭 界隈は特に騒がしく、一人でも多くの新入生を誘おうと皆が躍起になっている。俺 の所属しているのは日本手話を研究するサークルらしい。らしいと言うのはその、 誰でも簡単に覚えられますよ~……なんて甘い言葉に誘われて入ったものの、予想 よりも難しく、若干挫折していると言うか……研究と呼べる域には程遠い、素人よ りも少しだけマシなレベルと言うか……まぁ、そもそもどうしてここに入ったのか も俺自身よく分からないんだよな。特に手話に興味があったと言う訳でもないのに 不思議な感覚に捉われ、兎に角ここに入らなきゃって感情が頭を支配して。幸か不 幸か女の子が多いから救われてるけど、男が多かったら目も当てられないぞ。それ にしても勧誘が下手な連中ばかりだな。急に手話で話し掛けても意味が分からない し相手もどう反応していいか戸惑うだけだろ? これはあれか? 日本手話を知っ てる人を見抜いて勧誘するのが目的なのか? 俺みたいなやる気のない素人が入会 した事で研究が遅れてるのは分かるけど、難しく考えすぎて手話が嫌いになってし まったら意味が無いだろ? 言葉って言うのはさ……自分の想いを相手に伝えたい って言う『心』を形に変えた物だと思うんだけどなぁ。あれこれと自分なりに考え たが、不意に一人の女の子が仲間の元に近づいて来ているのが見えた。 もしかして日本手話に興味がある子なのかな? 離れた場所で見てたが、彼女は少 しも躊躇する事無く手話で会話をしてるようだ。と言うか、手の動きが早すぎる、 この子はかなりの上級者だと思うぞ。仲間も彼女の話す日本手話が早すぎて、単語 の意味や文脈が読み取れていないようだ。多分仲間の誰よりも上手く、手話通訳の 世界でも十分通用するんじゃないかとさえ思える。彼女は自分の手話が早すぎる事 に気付き、謝りながらゆっくりと丁寧に話し始めた。仲間が知らない単語は何度も 復して説明をしているようだ。これはもう先生と呼んでもいいレベルだろ。今後の 活動が楽しみになって来た、彼女の姿は俺に本気で手話を学びたいと思わせ、もし できるなら手話通訳士さえも目指したいと思わせるのだった。人混みも少し減って きたし、そろそろ俺も合流するか。中庭へと進もうと思ったその時、不意に振り返 る彼女の目に俺の姿が映ったようだ。すると突然彼女が大きく手を振りながら満面 の笑顔で走って来る。え? 俺の事を知ってるのか? 駄目だ……いくら考えても なにも思い当たる様な記憶が無い……全力で駆け寄ってきた彼女が息を切らせなが ら俺の前で微笑んでいる。 あ……あの……もしかして俺の事を知ってるの? いきなり失礼とは思うが、知ら ないまま誤魔化すのはもっと礼儀に反すると思うし、ここは素直に謝ってから聞い た方が正解だろう。だが彼女は俺をジッと見つめたまま一言も話そうとしない。俺 の対応は間違いだったか。しどろもどろにになりながら言い訳をしてると、仲間が 笑いながら話し掛けてきた。「春奈さんは生まれつき耳が聞こえないから、相手の 顔や口の動きで言葉を読み取ってるんだって教えてくれたわよ」そうなの? それ を早く教えてくれよ。必死に言い訳してた事が恥ずかしくなってきた。それにして も春奈さん……だっけ? 益々俺との接点が分からなくなって来た。自分の事をこ う言っては何だが、俺は福祉活動をするような性格じゃない。手話だって大学まで 一回も覚えようなんて考えは浮かばなかった。なのに俺はいつ、どこで? もし一 度でも会って、生まれつき聞こえない事を教えられてたら忘れないし、別の記憶と 取り違えようもない……う~ん分からん……。バツが悪くなって、もう頭をぽりぽ りと搔きながら愛想笑いを浮かべる以外出来ない。笑いを堪える彼女を見て時間を 戻せるなら戻してくれと神に願ったのだが、当然そんな奇跡は起こらない。もはや せい一杯の虚勢を張り、何も無かったかのように振舞うしかない。そんな俺に対す る仲間たちの冷めた視線とは裏腹に、彼女は優しい眼差しをむけていた。何だろう な……確かに初対面のはずなのに、全ての仕草が懐かしいと感じる。この子の為な ら何でも出来そうな気さえしてくる……不思議だ……。 こどもが集まる図書館で、俺は彼女と共に手話の勉強をしていた。初めて会ったあ の日から、春奈さんは俺の横に居る事が多いように思える。これはあれか? 俺の 身にも初めて青春が来たのか? 顏の緩みが治らんぞ。しかし何だな、言葉と言う のは相手に想いを伝えたい気持ちなんだなとつくづく思うよ。彼女の笑顔の為なら 何が苦労な物か! ってな感じで、手話の勉強も楽しくて仕方がないからな。これ を期に本気で通訳士を目指すのもありかもしれない。彼女と話す俺は時間の概念を 失うほど手話に集中している。その上達ぶりは発表会で自慢してもいいんじゃいか って思える程だ。彼女の教え方は絵本を参考にする事が多かった。簡単な話を使っ て、文章通りに手話単語を並べるのではなく、大まかな内容を把握しながら、こど も達に伝えるつもりで手話へと訳していくんだが、これが中々に楽しい。頭の中で 構想を練りながら日本語独特の表現を分かりやすい手話へと変換する。どうしても わからない時は彼女に教えてもらうのだがそれもまた楽しい。『今日はどんな物語 なのかな?』もう簡単な会話は手話で出来る。唇を読む……そんな負担を彼女に強 いない会話が出来る事が嬉しくて心地よい。 たなに向かった彼女が一冊の絵本を選び出す。『今日は人魚姫にしょうかな』きっ と最初からこれにしようと決めてたのでは? と思えるほど迷いが無い動きだった えんを描く澱みない動き……やるな……『ところで人魚姫のお話って知ってる?』 何年も前に読んだきりだけど、何となく内容は覚えてるような、ないような。『一 年生の時に読んだ記憶があるけど、確か、嵐の日に船から落っこちた王子が海のな かで溺れてて、人魚姫が助けるけど陸地には上がれないから置いてきて、声と引き かえに人間になって会いに行くけど、気付いてもらえずに泡になっちゃうって話だ ろ?』なんだこの視線は……彼女が珍しく冷たい目で見てる。だって仕方ないだろ う、昔から感想文は苦手だったんだからさ。『まぁいいわ、それで王子様のしたこ とはどう思うかしら?』『どうって?』彼女の質問の意図は分からないが、これは もしかして大事なターニングポイントなのか? どう答えるのが正解かは分からないけど、変に繕うよりも正直に感じたことを、お れの言葉で話した方がいいんだろうな。『子ども向けの絵本の筈なのに、幸せとは 程遠い結末な事に違和感があるんだ。読む子どもに何を感じて欲しかったのかな? 遠い人間の世界に憧れた人魚姫。嵐の海で運命的な出会いをし、痛みを伴い声を失 い、普通ならそこまでの試練を乗り越えたら幸せにならなきゃ駄目だろ? あんな 場面に……泡になって消えちゃう場面に繋がるなんてありえないだろ? 王子様の 所へ来た修道女が自分が助けたって偽るのも、苦痛に耐えながらやって来た人魚姫 への王子様の対応も、全部可笑しいと思うよ』思いの外熱くなってしまい、彼女が 引いてないか心配したけど、俺の手を見る目は真剣そのものだった。そして俺は続 きを話し始めた。『でも、王子様の行動は仕方なかったんじゃないかな? 心の距 離が離れてるって言うか、そもそも海で助けられた記憶がないんだから。一言も話 さない人魚姫の心情を汲み取れってのは……ちょっと無理かなって。修道女に騙さ れた時だって文字なりジェスチャーなり、何か出来なかったのかなって……あぁ、 よく分かんないし上手く纏められないな』見ると彼女が俯いたまま、静かに両手を うごかし始めた『人魚姫は言葉を伝えられなかったから不幸になったの?』『言葉 と音の両方を失ってる私も、この先幸せをつかむ事は出来ないの?』『もしも…… もしも王子様が覚えてたら人魚姫は幸せになれてたの?』俺は……愚か者だ。 きが付かなかったで済む問題じゃない。声を出せない彼女に対し、人魚姫は声を失 ったから不幸になったなんて。もうどんな言葉を繕っても意味が無い。思いはきっ と届かない。席を立つ彼女を引き止める事が出来なかった。彼女の笑顔を見る為、 あんなに頑張ったのは何だったんだよ。結局、俺は上っ面だけで分かったつもりに なってて、彼女の気持ちなんて少しも理解出来てなかったんだ……暫く時間が経っ たあと、仲間の女性が俺の元へとやって来た。どうやら落ち込んで歩いていく彼女 を見かけ心配になったらしい。「春奈には探してる人が居るらしいけど、ようやく 見つけ出す事が出来たって、その人の傍に居る為に大学に来たって、嬉しそうにい つも話してくれてたのよ、それってあなたの事じゃなかったの?」その話は初耳だ けど、初めて会った時から優しい視線を向けてくる理由が分かった気がする。思い 出す事が出来ないけど何か特別な事があったに違いない。音が無く、目からの情報 しか無い状態で日本語を覚えるのは物凄い努力が必要だ。俺が見慣れてる文字だっ て、音を知らない状態で覚えるなんて並大抵の努力で出来る事じゃない。健常者の みなが当たり前に出来る事でさえ多くの努力を強いられている彼女が、俺と会う為 せい一杯頑張ってきたと言うのに……どうしてその理由が分からないんだ……頑張 る理由をどうして覚えていないんだよ……馬鹿野郎……。 やるせない気持ちが俺を責め立てる。だが彼女の方がもっと悲しい想いをしたにち がいない。自分への苦痛よりも、彼女が苦しんでいる姿を見る事の方が遥かに辛く て耐え難い。彼女と過ごした日々に思いを馳せると心に温かい何かが流れてくる。 あの時間を失いたくない。彼女にとっては俺が特別だった様に、俺にとって彼女は なに物にも代え難い特別な存在だったのだろう。今にして思えば悪夢を見なくなっ たのも彼女と出会ってからだったように思える。幸せで心を満たせれば、悲しみ等 が入って来る予知など無い……正にその通りだが結局あの夢は何だったんだろな? 天のお告げと言う雰囲気ではないし。単に悲しい情景を見た感じではなく、あの時 に流した涙は心の底から悲しみを感じて溢れ出たものだったし。それに夢で天国に 召された女性が誰だったのか何故か気になる……。その時急に彼女の手話が思い出 された。『もしも王子様が覚えてたら人魚姫は幸せになれてたの?』そうだ……お れは何か大事な事を忘れているんだ……。 見なくなって久しい夢を思い出す。辛くて目を背け続けてたが確かにこの人を俺は 知っている。死別と言う形で失う前に感じていたのは愛おしさだ。夢の中の男と何 ら変わる事無く、俺もこの女性の事を愛していたんだ……関係のない、全く見知ら ぬ人ではなかった……。不意に後ろで物音がする。振りかえるとそこには彼女が一 人で佇んでいる。きっと心配した仲間が連れ戻してくれたんだろう。恥ずかしそう に俯き髪に触れる仕草には見覚えがある。夢の中で優しく笑う女性の姿と 日常の 生活の中で見せた彼女の姿が重なり合っていく。笑う時に手を口に当てる仕草も、 まゆをひそめて怒る仕草も、顔を見て甘える仕草も、泣いたフリをする仕草も、ど れもこれも全部覚えてる。どうして俺はあの日に交わした約束を忘れていたんだ。 変わらぬ愛を誓った筈なのに。俺は彼女の傍へと歩み寄り肩を抱いた。もう何も迷 わない。この記憶は間違いないのだと信じている。見つめる彼女と向かい合い、ゆ っくりと手を動かしていく。『春奈は美佳の生まれ変りなんだろ?』世の中のすべ てがゆっくりと流れている気がする。どれくらいの時が経ったのか、彼女は地面に も零れ落ちる程の涙を両の目に溜め……静かにそっと頷いた……。 もしも王子様が覚えてたら人魚姫は幸せになれてたの?……今ならばハッキリとこ う言える……幸せになっていたに決まってると。もしここに王子が居たなら、俺と 一緒に叫んでいたに違いない。二度とこの手を離さないと。次に何が起ころうと今 度は自分が探し出して見せると。この身を奪われ苦痛に苛まれようと、必ず彼女と 巡りあってみせると……彼女の顏を見るだけで幸せな気持ちになる。彼女も俺に寄 り添い安堵の表情を浮かべている。『あの時はごめんね……悲しい想いをさせて、 会えなく』死別してしまった事を謝る彼女の手を握り俺は言葉を遮った。『もうい いんだよ、春奈は時空と言う名の長い長い旅を終えて、俺の元へと帰って来てくれ たじゃないか、それだけで十分だよ、だから違う言葉でね』彼女は優しく微笑み頷                          いてみせた。         『……ただいま』『おかえり……春奈……』
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