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ヒーロー
水泳の授業が始まった。
幼稚園からスイミングスクールに通っている俺はこの日を待ち望んでいた。
球技大会では見当違いのところにボールを打ち返してしまうし、柔軟性がないためマット運動では無様な姿を晒し、他の教科ではもちろん成果を出せる訳もないこの俺が唯一輝く授業、それが水泳だ。
今学期初めての水泳の授業の日、待ち遠しくて夜はなかなか眠れなかった。気がついたら朝になっていた。遮光カーテンではない部屋で朝日が顔を照らしてくる。暑くて眩しくて目を開けた。寝るときは掛けていたはずのタオルケットはベットの下に落ちていた。寝苦しくて蹴ったのだろう。
カーテンを手で退けて窓を開ける。雲一つない真っ青な空。さっき俺の目をこじ開けさせた太陽もまだ低い位置にあるのにその存在感を光らせている。昼になったらまた最高気温を更新しそうだ。
絶好のプール日和。今日みたいな日にプールに入らないでどこに入るって言うんだ。いや入らない。
汗を吸ったTシャツを脱いで洗面所に向かった。
制服に着替える時、水着を着ていこうかどうかで悩んでいた。水泳の授業は2時間目。午後からなら諦めたが、10時ぐらいだと水着を着込んでいっても構わないのではないか?と。悩んだ末に水着を履いた。ちょっとでも長く水泳気分を味わっていたい気持ちが勝った。
学校へ向かう。いつも一緒に行く涼は今日も俺の右隣にいる。涼とは小学生の時からの友人で、いつもボーっとしている。でも日によってちょっとのボーっとかなりのボーっとがあって、それを見極められるのは俺だけだと自負している。今日の様子はいつものボーっとだ。
特に話が合うとか、趣味が同じわけでもないが、なぜかいつも一緒につるんでいる。むしろ、右隣にいないとしっくりこない。と、俺は思っているが、涼の方はどうなんだろうか。嫌いなら一緒に学校行くわけないので、嫌われているとは、考えられないが。
「今日、さ、」
涼が前触れなしに話し始めた。まあいつもいきなり話し出すので、俺は慌てない。
「プールあんじゃん?」
「ああ、あるな。」
「2時間目じゃん?」
「そうだな。」
「俺今日、6時間目までもたないと思うから保健室に迎えに来てね。」
「朝っぱらからサボる宣言するなよ。」
「絶対無理だって分かってるもん。それなら固い机の上よりもフカフカの保健室の方がいい。」
「そんな理由、保健の先生に追い出されるんじゃねーの?」
「保健の先生、やさしーから大丈夫。」
「その根拠は?」
「見た目の儚さ?」
「自分で自分のこと儚いって言う奴初めて見たわ。」
「貴重なものが見れてよかったね。」
「いや、よくないわ。」
「5時間目の化学までは頑張るから。」
「6時間目の数学まで頑張るもんだろ。」
「ハハハ。」
「笑い事じゃねぇよ。」
「後で、ノート見せてね。」
「それが狙いか。」
「タヨリニナルナァ、トモクンハ。」
「まだ、見せるなんて言ってないだろ。」
「どうせトモは見せてくれるでしょ?」
「俺もつくづく涼に甘いよな。」
「ハハハ。」
「はぁー。」
まあ、今日は水泳だ。トモのワガママぐらい聞いてやろうじゃないか。
さぁ、水泳の時間になった。いそいそとプールバッグを持って更衣室へ向かった。着替えなくても下に履いているから制服を脱ぐだけでいい。誰よりも先にプールに入れる。本当は先生が来なくちゃ水の中に入ってはいけないって言われてはいるが、そんなことを守るような俺ではない。と、言ってはみるものの足首を水に浸けているだけのびびりだったりする。更衣室に入って来たばかりの涼とすれ違い、プールサイドに乗り出た。
朝よりも高くなった太陽がジリジリと地面を焼いている。サンダルがないと暑くて敵わない。塩素の匂いと、水の匂い。飛び込みたい気持ちを抑えて、飛び込み台の横から水面に顔を近づける。ちょっとの風で波立っている。さっきよりも塩素の匂いが濃くなった。
ああこのまま入ってしまおうか。でも、濡れていたら先生に怒られるなぁとか、いろいろ考えていたら、
「レッツゴー。」
という、なんとも気の抜けた掛け声とともに俺はプールに落とされた。
落とした相手は、涼。
ラッシュガードを着て【絶対に素肌焼かないマン】になっているのは涼だけだからだ。本人曰く肌がとても弱いから、らしい。
うぇ、ゴホッ、アババッババ・・・
空気が上手く肺に入らない。足が付くはずのプールだということをすぐに思いつかず数秒慌てふためいた。
なんとか、立ってプールサイドで悠々と膝下を水に浸けて涼んでいる。
「涼、殺す気か?」
空気を吸い込んで発したやっとの言葉は細々しくなんとか掠れ出た声になった。
「入りたそうだったから。」
「だからって、突き飛ばすなよ。」
「いや、蹴った。」
「なおのことタチが悪いわ。」
「でも、気持ちいーでしょ?」
「溺れかけたわ。」
「え、ここ足つくよね?」
「突然のことだったからパニくったんだよ」
「レッツゴーって言ったじゃん。」
「言ってから、蹴るまでのタイムラグが無かった。」
「俺って、口よりも先に足が出るタイプみたい。」
「おっかねー奴だ。」
「知ってたじゃん。」
「知ってたけどよ。」
「先生、来るよ。上がっといたら?」
「怒られる、ぜってー怒られる。」
「一緒に怒られてあげるから。」
「10:0でお前が悪いよな?」
「ハハハ。」
案の定、授業開始前にずぶ濡れになっていた俺はペナルティとして、プールサイドで腹筋背筋スクワットのスペシャルメニューをこなしてからになった。一緒に怒られていたはずの涼は俺よりも先にメニューをこなして水に入っている。
クッソーと思いながら、最後のスクワットを終えて水に入った。さっきはいきなりだったから驚いて水の感覚を掴めなかったが、いざ、自分のタイミングで入るとなんて気持ちがいいんだろう。もうこのまま出たくなくなる。このままずーっとプールの中に居たい。それぐらい気持ちが良かった。
もう時間を忘れていた、ら、もう時間だった。
「早く上がれー。」
先生に促され渋々プールから這い上がった。
ものすごく名残惜しい気持ちを残して、授業終わりのあいさつをする。
「涼のせいでプールに入れる時間が減った。」
「ハハハ。」
「もっと入っていたかった。」と、愚痴ってみる。
「明後日も体育あるじゃん。」
「明後日は明後日、今日は今日だ。」
「ワガママだなぁ。」
「お前には言われたくない。」
更衣室に入り、着替えをと、、無い。取るはずの掴むはずの下着がない。
やってしまった。
やってしまった。
朝から浮かれて水着を履いてきてしまったから。浮かれて下着を入れ忘れた。やってしまった。
真っ青になっていたであろう俺の顔を見た涼が近づいてきて、そっと耳元で言った。
「俺のプールバッグの中に予備として未開封の下着が入っていたりするけれど、必要だったりする?」
「神様、仏様、涼さま~。」
「トモのピンチには駆け付けるヒーローだからね、俺は。」
「ヒーローは人を蹴ったりしないと思うが?」
「トモは帰るまでノーパンでいたいんだー、へー変態だね。」
「涼さまー、ご慈悲を。」
「数学のノートと、帰りのコンビニアイスで手を打つよ。」
「は、はいぃ。」
涼は、俺の友達で、俺のヒーローだ。すぐに足が出るのが難点だけどな。
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