曰くありげな師匠の言葉

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 親父とお袋は御多聞に漏れず世間並みになろうと、お互い別に好きでもないのに結婚した。親父は付き合っていた中で一番丈夫そうだからとお袋を選んだ。その昔、農耕の為の牛や馬を選ぶように・・・お袋はこの人となら気が楽だという理由で親父と一緒になる決心をした。因みに当時一世を風靡していた某男性アイドル歌手の大ファンだった。親父はそれとはまるで懸け離れた低身長の一介のスーパーの店員だったからウルトラ級の妥協だ。これは一般人の免れられない宿命だ。  こんな凡俗な両親の間に俺は生まれ、六畳間と四畳半の2kという手狭な間取りのアパートで育ち、俺には2つ上の兄がいるから夜は居間に使っていた六畳間に隙間なく敷き布団を四つ並べて家族一緒に寝ていた。  そのアパートで俺は約十年間過ごしたが、恐らく俺が生まれてから親父とお袋は夜の営みを一回もしなかっただろうと思う。子供と一緒に寝ていたからというよりそもそも性欲が湧かなかったんだろう。二人とも20代なのにと疑問に思うが、まるで色事をしている()がなかったのだ。新築の家に引っ越して俺ら兄弟は子供部屋で寝、親父とお袋は寝室で寝るようになってからも二つの部屋は隣接していたが、色事をしているような声や物音を聞いたことがなかった。  お袋は只々フルタイムの仕事と家事に追われ、忙しい、頭が痛いと独りで文句を垂れるのが口癖で実際、過酷なもので娯楽を知りすぎた今時の女にはとても真似できる生活ではなく、自分の時間をほとんど持てず、いつしか遊び心を忘れてしまった。そんな女だったから親父と交わったのは子供を作る為のみが目的だったろうし、定めしオーガズム換言すれば女の快感法悦を体験したことがなかっただろうし、女として諦めきっていたと言うか、色気のある生活とは縁がないと諦めていたのだろう、だから性欲なぞ持とうにも持ちようがなかったのだと思う。  親父もお袋と交わったのは子供を作る為のみで目的を果たしてからはやる気が起らなかったんだろうし、ときたまエロ本を買っていたから性欲はあったに違いないが、女遊びを一切しなかったから欲求不満を食欲で満たそうと好物を摂りすぎて腹がぶくぶく膨れて行き、60くらいの時、糖尿病になってしまった。そして合併症を患い、入退院を繰り返し、77で死ぬまでお袋に甚大な世話をかけ苦労をかけた。  親父もお袋も中卒で人並みになろうと人一倍働いて真面目一筋でやって来た結果がこれか。しかし真面目に働けば中卒でも報われる昭和平成初期の時代、高度経済成長期もバブル期も経験し、ほとんど好景気の中で残業も喜んで馬車馬のように働いた。何の為?マイホームを持つ為、いい暮らしをする為、けれども経済的に潤っただけで精神的には潤わなかった。  子育ても物さえ与えていればいいという物質主義で俺は中学高校時代、親と心の交遊が全く出来なくなった。それもその筈で親父とは全然話が合わなくてほとんど会話しなくなったし、お袋は小うるさくて鬱陶しくてしょうがなくて相手をしたくなかったのだ。  一方、兄は俗物だから両親と上手くやっていたが、俺は前々から親父もお袋も俗物と軽蔑していたから絶対親みたいな人間になりたくないと思っていた。だから俺は口が達者で女子にもてたのを幸いに相当数やった。  俺は両親が中卒で生まれつき頭が良い訳じゃないから人一倍勉強して絵描きになんかなれっこないと反対する両親を振り切って〇美大に進んだ。実は絵を描く才能は遺伝で持っていて、これも幸いなことに俺の通った中学高校は珍しく文化部を馬鹿にしない学校だったので入部した美術部を誇りに思って全うし、頑張った成果だ。  俺は〇美大でも女子にもてて美術モデルの女子とまでやってしまった。で、〇美大のドンファンと呼ばれるまでになった俺は、親の真面目な面を受け継いでいるだけに絵の方も相変わらず頑張って画家を目指していたが、卒業と同時に画家で食って行くという訳には中々行かない。で、学部長に気に入られていたコネを生かそうとしたところ学部長の知り合いで食客を募集している画家がいるというので学部長の肝煎りで、その画家邸に弟子入りすることとなった。  名を権瓦雁之助と言って名前同様物凄くてパブロ・ピカソみたいに年を取る毎に妻と愛人を若いのに取っ替え引っ替えして来て当時、60を優に超えていたが、22歳の若妻と二人暮らしをしていて、これがまた超美人と来ていた。  初対面した時、俺は見覚えがあると思った。それもその筈でつい最近まで女優として活躍していた久良木瑞穂だった。  当時、俺はまだアイドル歌手に興味があって単に細くて可愛いのをタイプとしていて瑞穂に注目したことはなかったが、瑞穂の裸婦画に出会って以来、女性観が根底から覆させられた。  俺はそれまで胸の大きさは重視していなかったが、キュビスムでなく写実主義によるリアルな瑞穂の端正で豊満な乳房を見た瞬間、コペルニクス的転回が頭の中で起き、貧乳アイドルに現を抜かしていた自分を愚かにさえ思ったのだ。  瑞穂の裸婦画とは勿論、雁之助が描いた物で即ち俺の師匠は瑞穂のルックスも然る事ながらスタイルとプロポーションに惚れて是非とも独り占めにしたく思い、また描いてみたく思い、瑞穂を娶ったのだ。  俺は師匠に聞かされるまで知らなかったのだが、二人は美術をテーマにするテレビ番組で出会って元々美術好きで師匠を尊敬していた瑞穂のハートを見事、師匠は射止めてしまったのだ。それはもう俺以上に遣り手で甘い言葉で誘うのはお手の物だから然もありなん。  しかし、年の差は気にならなかったのか、世間には気にされ、遺産目当てと疑われたが、それは下衆の勘繰りだと後に分かった。それは兎も角、俺は今まで交わってきた女子たちにしても細い範疇に入る女子の中で顔だけで選んでいたが、瑞穂の裸婦画を見るにつけ胸だけでなく首や腰の括れや臀部や四肢の造形にも拘らなければ駄目だとつくづく思い、瑞穂を理想形として崇めたく思ったものだ。  それにしても何故、師匠は俺だけに未発表の瑞穂の裸婦画を何枚も惜しげもなく見せてくれたのか、それには曰くがあり、俺は試されたのだ。  俺は食客だから師匠の指導を受けるほか、師匠の雑用を手伝ったり、瑞穂と炊事洗濯掃除買物などを代わる代わるしたりするので自ずと彼女と接することが多くなる。で、彼女は俺が笑わそうとすると、普通の女と同じように受けてくれるのだが、その時の俺の喜びたるや他の女を喜ばすのとは同日の論ではないのである。そんな風に思う日々が続く内、俺は瑞穂が欲しくて欲しくて堪らなくなるのだった。そんな俺に或る時、師匠は言った。 「石の上にも三年だ。そして青は藍より出でて藍より青しとなれば、お前にチャンスが来る。それまで待つのじゃ。」  なんのチャンスなんだか、その時は分からなかったから師匠に訊いてみたが、勿体ぶって答えてくれなかった。  その意味が分かって来たのは、作品が師弟関係の傍証になったり、師匠のお墨付きになったり、コンクールで受賞したり、画廊に買われたりした頃だった。  師匠が愛人と落ち合う為、留守にした時なぞに俺を見る瑞穂の目の色が変わって来たのだ。つまり俺の実力を認めるに至った瑞穂は、年老いた師匠より若い俺を求めるようになったのだ。  魚心あれば水心で、そっちがその気ならこっちもと当然なる所だが、あの師匠の言葉を約束のように捉えていた俺は、出藍の誉れを手にするまではと敢えて自らお預けするのだった。  どうやら師匠は瑞穂より好きな女が出来たからあんなことを言ったのであって出藍の誉れを手にした暁には俺に瑞穂を譲ることにしていたらしく師匠に弟子入りしてから丁度三星霜を閲した或る日、師匠は言った。 「わしは出かけるから存分に楽しむが良い。」  無論、愛人の下へ。それから俺は遂に念願かなって瑞穂と交わった訳だが、毎晩のように師匠と交わり、その一流の芸術家の手によって揉み解されながら絶品の形に仕上がった乳房を中心に堪能することは正に男冥利に尽き、その喜びたるや何より重畳で無論、他の女と交わるのとでは同日の論ではないのである。  その後、俺は独立して押しも押されもせぬ大家となって行き、金に飽かして美容ケアやジムトレを欠かさず続けて未だにイケてる瑞穂と契り合っているのである。その一方で定年後も親父の看病などで忙殺されたお袋をスケッチがてら旅行に連れて行ったりして親孝行している。  ざっと来歴を語ってみたが、俺の半生は両親と違って有意義なものだったと言って間違いないと胸を張れるのである。      
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