第9章 どうせもう逃げられない

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わたしはどうして断れなかったんだっけ。 もう上手く動かない、鈍ったような頭の働きの中で漠然と思う。よく覚えてない。 確かに最初は策略に嵌ったんだ。薬で眠らされて拘束されてたから、どうしようもなかった。 そのあとは。…どうして、陽くんの言い分を受け入れたんだっけ?わたしは心の底からちゃんとその説明に納得してたのか。 納得できないのに。どうしてずるずると、言われるがままに次々エスカレートする要求を受け入れていったんだろう? そんなことを今さら考えてもどうしようもない。これまでのことはもう、ひとつもなかったことにはならないし。 別にわたしなんかどうなったっていいや。流されるままでいい。 完全に考える力が失われていた。わたしは機械みたいに出勤して帰って眠り、最低限の栄養を摂るために味気ない食事をし、ときどき部屋に男を受け入れた。相変わらず月に一度は乱交の相手をさせられた。そしてそのときだけ、最後に自分の恋人と束の間交わる。 この先どうなるかはこの人が決めてくれる。ハッピーエンドでもバッドエンドでもいい。他人が決めてくれるんなら。 わたし自身はあれこれ思い悩む必要もない。 そんな毎日がこれからも何年、十数年も続くんだと思ってた。だけどある日突然、うっすら想像してたより遥かに早く。 変化のきっかけはなんの予兆もなくいきなり訪れた。…良くも悪くも。 何年も見ることのなかった名前がスマホのスクリーンに表示されてるのを見て全身がどくん、と脈打って血の気が引いた。…うゆちゃん。 もう彼女と話せるようなわたしじゃない、と気が引けるのと同時に。助かった、これでもう一人じゃなくなる。と相反する思いがせめぎ合う。うゆちゃんを頼って助けてもらおうなんて。それまで一瞬たりとも思い浮かべたこともなかったのに。 彼女みたいに精神的に完璧に自立してて何でも自分で判断できて、解決できそうな人からしたら。こんな泥沼から自力で抜け出せもしない間抜けは軽蔑の対象だろう。性的にも潔癖で欲望も薄そうだし、逆らえないで流されてあんな淫らな快楽に溺れる女は。普通に穢らわしいし理解の外だと素っ気なく片付けられること間違いない。 だけど。 とにかくLINEで文面だし、と意を決してどきどきしながらメッセージ画面を開く。 既読がつくくらい何でもない。返信だって何食わぬ顔して、元気だよ、そっちはどう?空手は相変わらず続けてる?とか以前のように無難に返せばいい。 うゆちゃんがわたしのことを忘れてなかった、初めて向こうから連絡をくれた。って事実だけでもういいんだ。それだけで充分嬉しいし、救われた気持ちになれた。 真っ暗な土蔵の天井に空いたごく小さな穴から差し込むささやかな太陽の光みたい。何でもない平和な、清らかな世界の空気感をほんの束の間味わいたい。と考えてその文面に視線を落としたわたしは思わずうっとなった。 『急で悪いけど。そっちに行くからなるべく早く時間作って。できたら明日がいい。予定があるならそれは断ってくれるとありがたい。仕事が終わる時間に会社に迎えに行くよ』 探りを入れるも何もない。本当にまるで有無を言わさずこれだ。 わたしに大切な知り合いとか外せない用事とかあるとは全然考えないのか、と思ったけど。…改めて真面目に考えてみると、まあ。ない、…かな。確かに。 でも。 『お久しぶり、懐かしいね。元気?明日は多分何もないと思うけど。もしかしたら急に外せない予定入ったら申し訳ないし。来週とかに改めて約束しといた方が確実かも』 いつも男の訪問や集団での行為に呼ばれるのはいきなりで、数日前からの事前の知らせとかはない。だから明日退社する直前とかに今日はこのあとすぐ部屋に帰って待機しとけ、とか今から迎えに行くから。とか突然彼から連絡が入るのが普通だ。 そうなってから、わざわざ東京から戻ってきてる相手を断るのはさすがに忍びないし。来週のこの日だけは予定を入れないで、と前もって陽くんにお願いしておけば。…わたしの言うことなんて彼は今でも真面目に聞き入れてくれるかな。むしろ友達と会う、なんて馬鹿正直に打ち明けたら。かえって約束を阻止しようとそこにあえて予定をぶち込んでくるかも。 そう考え始めると来週だろうが来月だろうが、もう確実に時間を取れる日なんて全然存在しないんじゃないか。とぐるぐる脳が迷い始めた。彼女からのメッセージが表示されたスマホを前にしてしばしの間、頭を抱えて呻吟する。 が、それ以上深い悩みにこっちが沈むほどの間もなく。即決即断の彼女はまるで意に介さず自分の言い分で押し切ってきた。 『明日になって急に誘ってくる相手は断って、悪いけど。会社休んでくれれば尚いいけど、いきなりそれは難しいでしょ。残業は受けないで。あと、わたしと会うまで他の人とは基本やり取りなしで。誰かから連絡あっても適当にごまかしておいて』 …本当に強引だ。だけど、うゆちゃんに限っては。意味もなくこういう無理めの要求をしてくることは多分あり得ない。 ここまでごりごりに押してくる切羽詰まった理由って。一体何だろう、と考えるだけで少し首の後ろ辺りが落ち着かずちりちりとしてくる。 もしかしたらわたしが窮地に陥って追い詰められてる事実が。何らかの形で既に彼女の耳まで届いたんじゃないだろうか。
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