第9章 どうせもう逃げられない

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彼女なら、うじうじと身動き取れずに縮こまるしかできないしょうもないわたしの尻を蹴っ飛ばすためだけに即座に飛んでくることも厭わない。そのことはさっきのLINEが証明済みじゃないか。 おそらくそのことを知ってる人だ、うゆちゃんにこの噂を教えたのは。まずは悪意あるただの噂じゃなくてそれが事実かどうかわたし本人に直接確認する必要がある。それを自分では無理だから一番親しかった女友達、しかも心身ともにその辺の男より断然強い彼女を巻き込んだ。絶対にわたしの味方になってくれる、って確信を持って。 うゆちゃんと仲が良かったもう一人の人物がうっすらと脳裏に浮かび上がってきた。そういえば、秋の夜祭りにも一緒に行ったな。中学時代の男子の同級生の中では珍しく、彼はいつでも彼女と対等に話せてて気の置けない間柄のように見えた。確か空手道場の同門同士なんじゃなかったっけ。 …そう、越智くん。うゆちゃんと同じに進学校の◯◯高校に行ったんだった。 そのあとは風の噂で東京の大学に進学したらしい。って堂島たちがどこか面白くなさそうに話してたのを思い出した。小学校の頃は俺の方が成績良かったのにさぁ、どうせ空手の推薦だろ?大学ってったって実態は絶対脳味噌筋肉でできてるよなあいつ。って、ほとんどやっかみみたいな会話。 大学は運動部の推薦だとしても公立の◯◯高校に実力で受かってる時点で頭の出来はわたしたちより普通にいいって証明されてるのに。小学校の成績で張り合ってもしょうがないんじゃ…と内心思ったから覚えてる。 わたしたちの周辺の感覚ではもう地元の人じゃない、って扱いだったけど。友達付き合いの広いいかにもコミュ強な子だったから、きっと今でも人脈が続いていて。噂も多分そっちから入ったんだろう。 うゆちゃんの友達だからわたしにも普段から親切に気さくに接してくれていた。…そうか、あの子が。 とにかく寝る前にシャワーを浴びよう。と重い身体を引きずり翌日に赴く。うゆちゃんと会うときは出来るだけきれいでいたい。面倒でも憂鬱でも、身体を清潔にしておいてから眠りに就こう。 彼女は正直なところ性格としては全然甘くないし、もしかしたら何でこんなになるまで状況を放っといたの!流されて他人の言うままになってんじゃないよ、とか言って容赦なくびしばし怒られるかも。シャンプーを頭で泡立てながら想像するだけで肝が縮んだが。 東京からここまで実際に足を運んでくれるんだ。と改めて考えるとやっぱり、どんなに厳しくてもわたしのためを思ってくれてるのは間違いなさそう。 彼女に知らせてくれたのが多分越智くんだ、って推測されるとすれば尚のこと。二人はどっちかと言えばおそらくわたしの味方でいてくれる。 …でも。励ましに来てくれるのはありがたいけど。いくら無敵のうゆちゃんでも。 こんな泥沼みたいな状況からわたしが抜け出すやり方を、そう簡単に思いつくとは思えない。 きゅ、とカランを捻ると少し冷めたぬるいお湯が頭の天辺へとじょわじょわと降り注ぐ。じわりと熱くなっていく温度を感じながらお湯まみれの顔でため息をついた。 陽くん本人をどうにかしようにも、彼がこの土地一番の有力者の跡取り息子であることは変わらないし。 その揺るぎない立場を考えたら、周りの取り巻きたちを造反させることもできっこない。こっちは孤立してて多勢に無勢だ。 だったら、と例えうゆちゃんが本人に直に当たったとしても。素直にその言うことを聞くような人かなぁ、彼は。 もしも一見説得されて反省したように見えたとしても。二人が東京に戻ってしまってしばらくしたら、反動でわたしを前より過酷な目に遭わせようとする可能性だって。…ないとは言えない、かも…。 本当はいけないことだと思うんだけど、翌朝もわたしはLINEを見るのが怖くてスマホに電源を入れなかった。真っ黒な画面のままのそれをちゃんとバッグには放り込んで出社したけど。 彼から連絡が来てたら返信しないって選択肢はないし。既読をつけないと決めても、メッセージが来てるのわかっててあえて無視してるとすごく精神的にプレッシャーだ。だったら最初から見ない方がいい。 うゆちゃんの予定が急に変わって来られなくなったとかそっち側の連絡も受けられないけど、それはもう信じる。で割り切った。もしいつまで経っても彼女が待ち合わせの場所に来なければ、そのときに電源を入れて確認すればいいし。 一日中落ち着かず、そわそわと集中できない状態で仕事をこなした。そんな中でもなるべく最低限レベルはこなそうと頑張ったけど。社長には申し訳ない。 定時までの時間が澱んだ沼の水くらい重かった。退社の時刻になり、わたしは他の社員の人たちに違和感を感じさせないよう精一杯普段通りの顔つきを装って会社を出た。 以前帰ろうとしたときに声かけられたみたいに、わたしのよく覚えてないそっちの知り合いが居合わせてなくてよかった。そういう人が跡つけて絡んできたらもううゆちゃんに頭を下げてでも頼んで撃退してもらうしかない、と胸の内で覚悟を決めていたが。 ここまで思い詰めて会いに行っておいて。向こうはただ単に久しぶりに用があって地元に帰ってきたからついでに声かけた、だけだったらマジで笑うな。ほとんど泣き笑いになっちゃいそうだけど、とやけくそに考えながらエレベーターを降りる。
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