一章「てふてふ」

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一章「てふてふ」

りりは気付いたらそこらに居た。いや、そこらに居たというよりそこらを舞っていたという方が正しいかもしれない。そこかしこにりりの欠片を遺しながら岩や草木の間をするすると踊っていたのだ。それがすごく美しくて、消えていく痕跡を眺めながら同時に彼女は儚いものなのだと理解した。 りりはいつだって舞い踊っているよね。 そんなことを言うとりりは、どちらでも良いよそんなことはと言って爪先で器用に舞い踊ったのだった。昔りりは私の前で踊ることが楽しいと言っていた。私もりりが踊るのを見るのが好きだった。だからもう私とりりの中でりりが舞い踊ることは当たり前になっているのだと思う。 りりはいつだって踊っている。走る時も歩む時も木登り、雨降り、いつだって。その小さな足でそこらを駆け回りながら、すぐに消えてしまうりりの痕跡を確かにそこに残しながらりりは舞い踊るのだ。そしてそれを私はいつもこの目で追っている。たまに危なっかしくて見ていられない時だってある。そういう時は胸が酷くずきずきする。 私は足を川の水に浸して言う。 「りり、こちらへ来て」 「うん」 上の空の返事。火の粉。 「お願い」 「でも」 石から石へ、けんけんぱ。りりが振り返る、私は思わず、あ、と声を上げそうになる。ぱちぱちと火花が散る。器用に岩へ片足立ち。私は平静を装って、 「りり、危ない」 「大丈夫」 「でも」 下がった眉に私は黙る。 「てふてふがいないの」 りりは悲しそうに言った。てふてふ。てふてふか。りりは色んなものが好きだ、色んなものに興味を持つ。それがりりだから仕方がない。 私はどうにかりりをこちら側、私が座っている陸地へ呼び寄せたくて頭を巡らせながら慎重に返事の言葉を考える。りりを少しでも水気のある場所から引き離したくて。 最近は… 「静かに寒くなってきたから、もうここいらにはいないんじゃないかしら」 「そうなの?」 「ええ」 「そう」 岩の上で独り俯いてしまう。 「りり」そう呼びかけると、 「悲しい」 しょんと呟く。ぐわりと悲しみが伝わってくる。全身でりりは全てを露わにする。 「そうね」 私はそっと腰を上げ悲しむりりの右手を取ることに成功した。悲しみに囚われ踊ることを束の間忘れたりりはほんの少しだけ捕まえやすい。私にその手は熱すぎるけれどもう遠に昔に慣れてしまった。ほんのこれくらい慣れておかないとりりと一緒には居られない。 「おいで、りり」 りりは引き寄せられるままこちら側、陸地へ大きく一歩踏み出した。私の隣におとなしく収まった。良かった。 「てふてふに会いたいの」 「また来年、会えるわ」 諭すように言う自分が嫌になって、それでも私はりりの目を見つめようとした。りりはぼんやりと流れる水を見ながら、来年、と遠い過去のように呟いた。 「今年…」 「今年?」 「いま、会いたいの」 「いまの蝶に会いたいのね」 りりは頷いて私の左手をぎゅうと握った。困ったことになってしまったと思った。空を見上げると木々の隙間から青の極光が見えた。上空には何やら大きな鳥が飛んでいた。兎か何かを掴んでいるようだった。 ぱしゃりと水面で音がして、小さな魚の群れが下流へくだっていった。りりは私の足に当たって跳びはねた水滴を掴もうと手を伸ばす。 「りり、危ない」と私は制する。 「このくらい平気」とりりは笑う。 「ふうは心配性だね」 「そんなこと、ないわ」 「そんなこと、あるよ」 そんなこと。言いかけて、 「…少しはあるかも知れないけれど」 「やっぱり」 私達はしばらく手を繋いで静かにそうしていたが、りりがとうとう膝を抱え込んで頭を埋めてしまった。そのつむじをまたしばらく見つめていると、橙の前髪がぱちんと私へもたれかかる。熱い。まだ少し、ほんの少し入り込める余地がありそう。りりは頑固だけれどひび割れながら燃えているから。 「大丈夫よ、りり。また会える」 「いまじゃなきゃ嫌なの」 「どうしても駄目かしら」 「どうしてもって言ったら、ふうは困る?」 そうねえ。どうかしら。本当に分からなかった。 私のことを、ふう、と手鞠のように手放しに呼ぶのはこの世でりりしか居ない。私はその風の鳴りのような、そして一度だけ目にしたことのある透明な硝子細工の音の響きに似ているこの呼び名がとても気に入っている。りりが呼ぶからより気に入っているのかもしれない。どちらかは分からない、どちらもかも知らない。 少しだけ夜が近づいた。オーロラが消えいく。夕暮れ、けれどまたすぐに朝になりそうな予感。 ここは深く重く濃く、そして様々なものが入り混じる森で、外のもの達は光年樹海と呼んでいるらしい。ここには多くのものが住んでいるが、私とりりを含めてその多くは生まれてこの方この森から出たことがない。出たことのあるものもあるがそれが帰ってきたことは私が知る内では一度もないし、一度入ってきたものが抜け出すことはとても困難なことらしい(後者は噂話。本当かどうかは知らない)。迷い込んだら最期、深海のような森なのだから仕方がないと思う。 「ふう。探しに行っては駄目?」 駄々っ子のように私の肩を揺する。珍しい。そうねえと私は逡巡する。 「そうねえ、見つかるかしら」 見つからないだろうなと私は思った。そうなったらこの子は酷く落ち込むだろうな。 りりの悲しむ顔はできる限り見たくない。私にとってりりはあまりにも真っ直ぐで、いつも酷くそれに私は暴露してしまうのだ。それでもこのほんのり垂れた眉毛に私は結局のところいつも負けてしまうのだ。だからいつも私は駄目。 「ええ、行きましょうか。りり」 りりの顔がぱっと煌めく。良かった。この顔だ、この顔が良いのだ。 まあもし見つからなくとも私もりりと共に落ち込めばいいかと頭の片隅で考えた。それに私がこの返事をすることによってひとまずはりりの悲しみに今すぐ暴露しなくて済む。後からと今とじゃ大違いだ、心の持ちようが全然異なる。私はなるだけそういうのを後回しにしたいたちなのだ。 ひとに言わせれば私は、ラッカンテキ、というやつらしい。アトサキカンガエナイ、とも言われた。意味はよく知らない。 どうにかなると思っているんだろう。自分ならばまあどうにかできるだろうと、そう思っているんだろう。そう、川のうんと上の方に住んでいる山椒魚の爺さんに言われた。オゴリだ、オゴリと指をさされて笑われた。否定は、できない。 「行こう、ふう!今すぐに、出発しよう!」 りりは決めたら曲げない主義。りりは熱源だから酷く有り余っているもの。 そこらに散らばっていたりりのぱちぱち破片がりりの元へと集まって私の手を引く。火花がちりんちりんとりりの耳や肘から零れ落ちる。一度だけ聞いたあの硝子細工の音とよく似ている。 「ええ、行きましょう。りり」 私達は手を繋ぎ落ち葉を踏みしめて歩く。 途方も無い、青いてふてふを探しに。 私とりりが手を繋いで歩いていると婀娜っぽい艶きのこ達の行進に鉢合わせた。豊満な身体をたゆらせて毒々しい香が瞬く間に辺りを包む。この前まで繰り広げられていた槍きのこ達との戦争にとうとう打ち勝ったらしい。どうやらめでたく女王の領土を広げるそうだ。勝利の悦びゆえかいつも以上に胞子が舞い散り、周囲の木々に付着している。私は少しだけ咳き込み、りりは小さなくしゃみをした。恐らく三日後にはここら一体、艶きのこの子供達で埋め尽くされることだろう。 「おめでとう、艶の女王」 そう祝いの言葉を述べると艶きのこ達が支える花籠の中から、 「ありがとう。水脈の翼竜と火花の子よ」 粛々とした声が返ってきた。 「またお国を広げるんでしょう?みんな良かったねえ」とりりが笑顔で言うと、 「女は最たる戦士ですもの、当然よ」 少し嬉しそうなその声が響いて、またしても艶きのこ達がきゃいきゃいと女らしく騒いだ。 「これから何処へ?」問いかけると、 「少し旅をすることにしたのよ。良質な土を探して」 縞模様の婦人が答えた。 「だったら水牛の角を追うと良いよ。きっとその先に綺麗な水もあるだろうし」 りりがにっこりと笑って飛び跳ねる。ぱちんぱちんと火の粉が弾けるが艶きのこ達は物ともしない。彼女達は火を恐れない。 「あら、そうなの。それは嬉しいわね」 良いことを聞いた、良いことを聞いた。相変わらずりりとふうこは物知りね。豊満な茎と傘を揺らしてきのこ達がさざめく。お聞きになられましたか女王様。牛の角を追うと良いそうです。 「ではりりとふうこの言う通り、水牛の角を探しなさい。西方から香りがするわ。そちらへ進んで行きましょう」 女王の堂々たる掛け声にまたもきゃいきゃいと声が上がった。仰る通りです我が女王。今すぐ向かいましょう我が女王。総員、西方へ舵を取れ。 「ところであなたはこれから何処へ行くの、りりとふうこ」 そう水玉模様の婦人が私達に尋ねた。 「てふてふを探しに行くの」 りりが答える。 彼女達はこの森で私とりりの名前を発声できる数少ない種だ。あとは独自の言語を待っているか言葉など持たずただ生きる為に生きているかのどちらかしか見たことがない。 「蝶なんてまだいたかしら」 西へ向かい出したきのこ達がまたもさわさわと傘を揺らしだす。ねえ、どうだった?あたし見たかしら?あたし見てないわ。りりとふうこが探しているのよ。ほら何か覚えてないの?あたし覚えてないわ。ああ、とっても良いことを教えてもらったっていうのに。もう、あたしったら駄目ねえ。 「ごめんなさい。あたしは見ていないわ」 婦人が申し訳なさそうに答えた。 「いいえ。助かったわ、ありがとう」と私は丁寧にお礼を言った。りりとふたりでお辞儀をして彼女達と彼女達の女王と別れた。 「さようなら!りりとふうこ」 彼女達は私とりりのことを必ずりりとふうこと呼ぶ。おそらくふたつでひとつ、ひとつでふたつ、彼女達の単位で数えられているからだろう。私はそれを悪くないなと思っている。りりがどう思っているかは知らない。どう思っているか、聞こうと思ったこともない。聞くのは、どうしてだか少しだけ怖い。 私とりりはしばらく彼女達の行進を見送って最後の最後まで手を振り続けた。この広い森でまた出会える確率はかなり低い。もう二度と会えない確率の方が高い。私としても特にまた会いたいとも思わない。自ら会おうと、何か特別に努力することもしない。ゆくさきも聞かない、争いの中身も聞かない。こちらが何かを提供し、あちらがそれ相応のものを持っていれば受け取るだけ。この森の、特にこのきのこ達のなわばりではそれくらいのものだ。まありりがまた会いたいと言えば別だろうけれど。 私とりりが手を繋いでまたしばらく歩いていくと湿った蔦のカーテンの先に槍きのこ達の行進が見えた。項垂れてしなびれて傷だらけ。いつもは山程蓄えている細い束の傘が一本も残っていないものも居た。いつもは繊維が豊富で美味しそうなのに今日は全くそそられない。槍も盾も威厳も壊れ今にも傍の朽木に癒着してしまいそうだった。私とりりはその後進の一番後ろにそっと付き添った。邪魔にも厄介にもならないように。 「負けたのね」 そうできるだけ小さな声で言葉を掛けると、 「ああ、負けたんだ」 そう俯く戦士のひとりが返事をした。傘の部分は丸裸で、少しくらい毟ってつまみ食いしてやろうかと思っていた私は落胆していた。 「仕方がない」 誰かがぼそりと呟くと残り少ない傘を震わせ、仕方がない仕方がないの合唱が始まった。いったい何処まで続いているのか、そのざわめきにシダは揺れ蔦達がより一層濃い影を作った。その陰鬱な大合唱が私はすぐに嫌になり、りりの両耳を塞ぎたくなった。こんなところからりりを今すぐに連れ出したかった。けれどりりは特に気にした様子もなく、 「なんで負けたの?」 ねえ、ふう。 「どうして負けちゃったの?」 そんな問いを投げ掛けてきた。 槍きのこ達は毒まみれの土壌に住んでいるのだった。それがとうとう嫌になって豊潤な土地を持っている艶きのこ達に戦争をふっかけたらしい。わざわざどうして争いなんぞを選ぶのか、私は不思議で馬鹿らしくてしょうがない。一言、少しだけ分けてくださいと言えないものなのだろうか。傘の一部分を差し上げますのでどうにか分けていただけないでしょうか、と。私ならすぐにでも承諾するだろう。なぜなら彼らは美味しいから。けれどそんなことを言ったところで艶きのこ達がそれを受け入れるとも思えない。そもそもきのこ達が元よりそういう種族なのかもしれないと思った。分けてくれと頭を垂れるのがめんどくさいから奪う方が楽だと思ってしまう。分けてあげますと慈愛を差し出すのがめんどくさいから武器を持ち傷つけ追い払うのが楽だと思ってしまうのかもしれない。私が答えられないでいたからだろう。 「どうして負けたの?」と辛抱堪らなくなったりりが槍きのこのひとりに聞いた。 「適当にやっちまったのさ」と先程の戦士が答えた。 「適当?」 ああ。 「適当にふっかけて適当に武器を選んで適当に攻め込んだ。そしたら適当に負けたんだ。だから当然なんだ。仕方がないんだ」 「どうして適当にやってしまったの?」 私はりりを止めようかと思った。けれどあまりにもりりが無垢な鼻先を戦士に向けているものだから止められなかった。 さあ、と戦士がぼやいた。 「俺達はただ欲しかったんだ。俺達が持っていないものを。それがただ欲しかっただけなのに」 「今からじゃあ、もう遅いの」 ああ、遅いよ。 「もう俺達は一生あそこで、毒まみれのまま滅んでいくしかない気がするよ」 滅んでいく、滅んでいくんだとまた大合唱が始まった。もう終わりであることがわかっているからか、先程よりどこかラッカンテキな合唱であるように感じられた。彼らはほとほとに疲れ果てていた。けれど目に見えて終わりが分かっているということはすなわち、命に対して繭のような安堵を与えるものなのかもしれないと思った。だから彼らは一見りりに語りかけているようで、それでいて自分達に言い聞かせているよう見えた。滅ぶ、俺達はもう滅ぶのだと。 りりが語気を強めて言う。 「そんなことない。そんなことないよ。しっかり前を向いて綺麗な土地を目指して進んでいけば、あなた達はきっと大丈夫だよ」 りりがぱちぱちと弾ける。まただ、りりが露わになっている。露わになったものは火花になって水溜りにじゅうと溶ける。なんて無責任な魔法の言葉。それでも拠り所を失ったもの達を縋り付かせるに充分な残酷なお告げ。 そうかなあと戦士が答える。本当はもう滅ぼしてほしいんじゃないかとすら思った。けれど私は言えなかった。そして戦士はそんなもんかもなあと少しだけ笑う。私は見ていられなくなる。 「相変わらず、りりとふうこは元気で明るいな。一緒に居ると気分が晴れるよ」 そう言ってへらりへらりと笑った。無論、そんな未来は無いことは彼らが十分分かっているのだ。そして無論、明るくて元気なのは私ではなくりりなのだ。彼の胸の曇りのち雨を少しだけ掃除したのもりりだ。けれど今ここは彼らの世界、だから彼らの決まりに乗っ取るのが礼儀というものだ。だって私達は青い綺麗なてふてふを探しに来ただけなんだもの。私達は無力で何もしてあげられないんだもの。 「ところであんたはこれから何処に行くんだい、りりとふうこ」 「てふてふを探しに行くの」 りりの声に迷いはなかった。けれど結果は変わらなかった。彼らも彼女らと同じように茎と傘を震わし、知ってるかい見てないかい、を繰り返して、 「ごめんなあ。俺は見ていないよ」とそう言った。 私はまた丁寧にお礼を言って、私とりりは彼らと別れた。また彼らの行進が見えなくなるまで私達は手を振り続けた。彼らの傷が少しでも早く治りますようにと口には出さずにお願いした。 「仲良くすれば良いのにね」と彼らを見送りながらりりが言うので、 「ああいう風にしか生きられないのかも」と答えた。 「ああいう風って?」 ああいう風。ぬるい風が吹いた。 「例えば種族が同じでも、争わずにはいられないとか」 「でも私達は違うけれど仲良くしてるよ」 りりは簡潔にそう言った。私は口籠もった。困ってしまった。 「私は…」 「うん」 「私は、りりが居ればそれで良いから。領土とか戦争とか森の外とか、全部どうでもいいから」 そう言うとりりはにこりと笑って、「本当かなあ」と、そう言った。 本当だよと私は言い返したくなった。りりは時々なんでもお見通しているみたいなことを言うのだった。私はそれが少しだけ怖かった。私は水に潜りたくなった。ひれと水かきが恋しくなった。りりに暴露するとどうしようもなくなってたまに胸の奥に火がついたようになる。けれど私は火というものを知らないから、きっとそれはりりから飛んできた火花なんだろうと思う。いつもは静かに青く鎮火しているのに何かの拍子で赤く燃え盛るのだ。 そしてそのきっかけは大概りりで、私にとってもそのきっかけがりり以外なんて考えられないのだ。 「ふう?」 私は胸の辺りを撫でて顔を上げた。りりを見つめて私は少し口角を上げた。 「なあに、りり」 「大丈夫?」 「もちろん」 早口の、もちろん。ばれないでほしい。何がばれないでほしいのか、私自身何も分かっていないけれど。 「さあ、りり」 「うん」 「青いてふてふを探しに行こう」 地の果ての、何処までも。私の皮膚が乾いてひび割れるまで。 私達がなわばりとしている水源からもうだいぶ遠くまで来てしまった。いつも採りに来る枇杷と木通の群生を通り抜けてからかなりの時間が経った。こんなに遠くに来たのは久しぶりだ。いつだったか、尾を飲む蛇が千年ぶりに卵を産むとのことでりりとふたりで見に行った以来だ。蛇は見事大きな卵を三つも産み落とし、見に来ていた私達や他のもの達を圧巻させた。彼女は「ありがとう、ありがとうね」とようやく聞き取れるくらいの蛇の言葉でそう言った(尾を口に咥えているので仕方がない)。だがその言葉をこぼしたその瞬間、卵を愛でる優しげな彼女から打って変わって円形の体をしならせながら襲いかかってきた。どうやら私達のことを出産で疲れ果てた体を癒すための貴重な食料と認識したようだった。それはこちらも困るということで私達は一目散に逃げ出したのだった。弱り果てた体をすぐにでも回復させて生まれてくる子供達の肉も調達したかったに違いない。無理もない。良くできた母親だ。 そんなことを思い出しているうちに森の様相はかなり変わってしまって、シダや青々とした苔が多くなっていた。より一層湿った泥の匂いがしていた。 私は私達がなわばりとしているあのあたりへ早く帰りたいなと思った。あのあたりは私にとってとても良いところだ。水源があって水流があって小さな滝があって、私はたまに滝壷へ潜るなどする。川岸には柔らかい下草が生えていて適度に乾いていてりりにとっても棲みやすい。干し草を敷けば充分暖かなベッドになるしその上でぱちぱち弾けさせながらりりが転がっている姿は酷く可愛い。普段は周りの木々の枝やうろで日向ぼっこしながら昼寝をしていることが多いので私は時々胸をずきずきさせながらりりを探すことがある。りりが何処にも見当たらないことでと、りりを見つけたとしてりりを起こさないようにしたいことで、だ。りりを急に起こしたてもりりが不機嫌になったりすることは今の今まで一度もない。けれど私はりりの快適をできることなら決して邪魔したくないのだ。もし邪魔しようとする輩が現れようものなら滝壺に沈めてりりを目の届かぬところで消し去ってやりたいくらいなのだ。 あの火花はお前のチュウシンなんだろう。 そう山椒魚の爺さんに言われたことがある。チュウシン、というものをよく知らない。森の中心、だとか、湖の中心、だとかそういうことなら分かる。けれど私の中心なんて体を裂いて胸骨に刃物を入れてみないと分からないじゃないか。爺さんは私の知らない言葉をよく使う。爺さんは私にとって程よくどうでもよい存在なので爺さんの使う言葉も私は比較的どうでもよい。 「ふう」 りりに呼びかけられた。 「なあに。りり」 私は答えた。私とりりは手を繋いでいて、足元は落ち葉から泥濘へと変わっていた。 「知ってる?青いてふてふってここの主様のことなんだって」 「主様?ここの?」 私は思わず聞き返した。 「ここのって、この森の?」 「ううん。もっと広い、森の外全ての」 森の外には虹の麓や林ひとつ飲み込んでしまう沼地、北に住む水馬の群れや常に腹ぺこの歩くウツボカズラが居るらしい。私は想像してみる。それらが見晴らしのいい丘の上を我が物顔で闊歩している。なんて恐ろしい光景だろうか。 「少し前に月のおばあさまに雷が落ちたでしょう。そのあと青いてふてふが言っていたの、主様は私と同じ翅の色をしていたって」 私とりりは主様を直接見たことがない。主様は私達が住む森、そして森の外、つまり私達が居る世界全てを守っていてくれる存在だ。意識が遠くなるほど昔に、この森の真ん中に座していた月桂樹、もとい月のおばあさまからお生まれになったと聞いた。けれど少し前の落雷で月のおばあさまは更に深い眠りに落ちてしまったそうだ。おばあさまの周りには何か強い強い力で守られていて私とりりのような力の弱いものは近寄るだけで奪われてしまう。遠くからそっと見守ることしかできないのだ。だから次おばあさまが芽吹くのはもう私とりりもいなくなっている頃かもしれない。 「もしかして、その蝶が今年最後に見た蝶だったの?」 そう尋ねると、うんとりりは頷いた。 「忘れたくないの。主様の翅の色を忘れないうちにもう一度見ておきたいの」 もう忘れるのは嫌だから。 「りりね、いつか、主様の翅の色が見てみたいの」 まるで幻想のお伽話。嘘かも知れないのに信じるりりは愚直で尊い。 「主様、どんな方かしらね」 どんな方だったら、良い? 「ぜんぜん分かんない」 どんな方でも、りりは良い。 りりは真っ直ぐに前を見つめたまま続けた。 「でもてふてふを見つけられたら、少しだけでも主様のことを知れるんじゃないかって思うの」 りりがこの世界の主にそんなに関心を持っていたなんて知らなかった。そう思った途端、なんだか少しだけ胸の中の火がきらついてすぐに鎮まった。そして少しだけそのことが恥ずかしくなった。 「主様って何か好きなものはあるのかな。嫌いなものとか、いつもしてる日課とか」 「さあ」 さっき自分も同じようなことを言ったのにまるで気のないみたいな返事をしていた。日課。例えば、りりで言うところの舞い踊る、に近いんだろうか。 「ふうは知りたくない?」 「うん…」 私はまた困ってしまった。分からない。少し考えて言葉を選んで、 「りりが私と一緒に居てくれるなら、良い」 「良い?」 「うん」 「良いって、どういうこと?」 私はまた黙って、少しの間考えて、 「主様のこと、知っても知らなくても大丈夫だってこと」 そんなの当然だよとりりは笑って言った。 「大丈夫。りりはずっとふうと一緒に居るよ」 そうか。そうなら主様のことを知識として知ってもまあ別にいいかと、私はすぐにそう思えた。 山椒魚の爺さんがこれを知ったら、きっと私のことをゲンキンナヤツと笑うんだろうなと思った。意味は知らない。けれど響きが面白くて私はこの言葉が結構好きだ。 私はとてもゲンキンナヤツ。 私はひどくゲンキンナヤツ。 りりと一緒に居られたら、あとはまあ大概のことはなんでも良いのだ。 「あ!」 急にりりが叫び声を上げて私の手を離した。私はぽかんとそこに取り残されてりりの小さな背中を見ていた。りりは駆け出してすぐにずるりと転げて、けれどりりは火花だからそれさえも勢いに変えて駆け抜ける。めちゃくちゃな走り方だ、手も足もてんでばらばらの斑模様みたい。 手を離された私はぐずぐずした心持ちになんとか蓋をして、岩を蹴ってすぐに姿を変えた。翼を広げてりりを追いかけた。水分を多く含んだこの土地は私の大きな味方になってくれる。泥に潜って水かきで泥濘を駆ける。水が鱗の上を跳ねて、空中に出た時にはもうりりと並んで飛んでいた。 「青いてふてふが、いたの!」 息絶え絶えにりりは叫んだ。指さす方向も定かじゃない。 「りり。乗って」 私は返事を待たずりりを足元から掬い上げた。ぱちぱち弾ける温度を感じながら私は速度を上げる。りりが振り落とされないよう熱い手で私の角を握って体全部で私にしがみついてくる。愛しい。 木々の間をうねるように滑空。鬱蒼、苔玉、幹と幹の隙間をひらり、奥に開けた岩場が見えて。 「ほら、あそこ!」 その言葉に私は大きく舞い上がった。熱した速度を空へと逃す。丸石、湧水、見上げれば星空、広がる岩塩の庭に確かにそれは居た。私とりりが探し求めていた、青い翅のてふてふ。 糸のように細い六本の脚で塩の結晶の上に止まり、その細い口でちうちうと塩を舐めていた。時折風の流れで、その翅をぱたりぱたりとはためかせた。星あかりに鱗粉が跳ねて当たって青い水滴が鈴のように零れる。黒く細長い腹はいつか見たオニキスの結晶のようで身じろぎするたび、その濡羽色がきらきらと輝いた。その光景を、時が止まったかのように私は黙って見つめていた。 「ふう」 「うん」 「綺麗だね」 「うん」 とても綺麗。 その姿全てが、水面、星空に反射してちかちかと瞬いていた。淡く光り、私達は目を奪われ、訪れる冬を忘れていた。 りりが耳元で囁いた。 「話しかけたら、怒るかな?」 さあ。 「分からない。どうだろうね」 私もりりに囁いた。そしててふてふを驚かせないよう、てふてふを怖がらせないよう、私はゆっくりと岩場に脚を降ろし翼を畳んだ。そして静かに竜の姿を解いた。 「ふう。あの子と話せる?」 怯えたようにりりは言った。 「私が?」 私は驚いてそう返した。 「どうして、りり。やっと会えたのに」 「怖いの」 私はまたりりの感情に暴露した。 「燃やしちゃいそうで怖いの」 私の火花があの子の翅に穴を開けるんじゃないかって怖いの。 「私はみんなから嫌われているし」 「そんなことない」 私は思わずりりの肩を掴んでそう言った。でも、とりりは俯き言葉を続けた。 「主様が私のせいで燃えちゃったらどうしよう」 「大丈夫よ、大丈夫」 私はできるだけの、ありったけの優しさと暖かさをかき集めた。 「主様は燃えたりなんかしないわ。だって主様は強いもの」 だって私達の世界を守ってくれている、ただひとりの陽だまりの君だもの。 「だからりりを嫌ったりしない。りりの火の粉で死んだりなんかしない」 私とりりは手を繋いでてふてふの側へ近寄った。私が左手に水を汲んで差し出すとてふてふは素直にそれを吸い始めた。ゆっくりゆっくり、ちうちうと吸った。私達と同じ発声はできないようであった。てふてふは決して飛ぼうとしなかった。翅が所々欠けていた。冬が近づいていた、弱っているのだった。 「もしかしてこの子、死んじゃうの?」 冬が来るから? 「うん、そうかもしれない」 水を飲み終えたてふてふは私とりりには分からない言葉で何かを言った。知っているような単語もあったけれど、どれも短くて途切れ途切れで聞き取れなかった。言葉の端々は私達の周りをくるくると回り、そして最期は花弁のように落ちていった。蝶の言語とはそう、ふわりふわりと零れるような切れ切れなものなのかもしれなかった。 てふてふは空へ飛び立とうとしたけれど斜めによろめいて岩場にぱたりと倒れてしまった。りりが支えようと手を伸ばして互いに火傷しすぐに離した。 「ごめんなさい、熱かったよね。ごめんなさい」 りりは右手をぎゅっと左手で握った。私はその光景に目の前が揺らいだ。りりは悪くなんかないのに。誰も、何も悪くなんかないのに。りりの繰り返される、ごめんなさいの言葉にてふてふは何かを答えた。優しい詩のようなものをふわりふわり言った。怒ってなんていないことが分かった。私達はてふてふの傍らに座り込んだ。膝をつき、その翅の青さを目に焼きつけた。 「これが、主様の青?」 「そう、かもしれない」 深い青だった。私は初めて見る青。きのこ達のぱっきりとした青とも、水源の透き通った青とも違った。きらきら光る碧色の宝石をいくつも集めてこの両の手に乗っけたって、決して辿り着けないような青さだろうと思った。知りもしない、会ったこともない主様に想いを馳せた。 「綺麗ね」 「うん」 主様は綺麗。 星の光に当たってきらきらと輝いて心底美しかった。それが最期息絶えようとする姿はより美しかった。大概のものはみんな滅びて塵になってしまう。それになんの気持ちも揺らいだことはない。それが必然、ことわりだから。なのにこの目の前の光景は私をなんだか悲しい心持ちにさせた。悲しい、という感情もりりから教わった。こうなったのもりりに暴露したせいかもしれない。 てふてふがゆったりとした動作で体を起こした。そして静かに、 「わたし、かえるわ」 弱ったてふてふは私とりりにそう言った。理解できる言葉でそう告げた。 「何処に?何処に帰るの?」 りりが何度そう聞いても、 「かえるの」 そうとしか答えなかった。 かえる。還るの。 夜空を見上げて。 「あるじさまの、ところへ」 主様の所。 そう言った途端、ぱんと翅が弾けて青い星々が舞い上がった。てふてふの姿は跡形もなく消え去り、そこには星明かりの影ひとつすら遺らなかった。私達は何も言えないままでいた。 私は両手を差し出した。宝石の鱗粉も墨色の触覚も、何も掌には遺らなかった。 死んだ。 てふてふは、死んだのだ。 その事実を私は何度も反芻して飲み込んだ。死んだ、死んだのだ。もう二度とかえってはこないのだ。かえってきたとしても、それはもう私の手から水を飲んだてふてふではないのだ。また初めましてからのやり直しに過ぎないのだ。死んだてふてふのその星々は私とりりの周りを数回、くるりふわふわと回って、さようなら、と丁寧に挨拶した。だから私も、さようなら、と丁寧に挨拶を返した。 「さようなら。てふてふ」 主様によろしくね。りりのこと、よろしく伝えてね。 青い星々は瞬く間に夜空を駆けていった。多分言葉の通り、主様の元へかえるのだろう。主様に会ってなんと言うのだろうか。変なふたりに会ったと笑って翅をはためかせるのだろうか。 私はてふてふに問いたくなった。主様のもとへかえることは、てふてふにとって幸せなことなのだろうかと思った。でもきっとあのてふてふにとってはこの上なく幸せなことなのだろうと私は思った。私がりりと一緒に居られる、それと同じくらいに幸福なことなのだろうと思った。 「死んじゃったんだね」 りりは泣いていた。 「どうして死んじゃうんだろう」 「分からない。私には分からない」 ごめんなさい、りり。 「置いてけぼりなんて嫌だよ」 そう泣きじゃくった。私はりりを引き寄せた。熱く燃えてりりはぼろぼろに火花を落とした。私はこのまま燃え尽きてしまうんじゃないかと心配になった。 「でもきっと幸せだよね」 そうだよね、ねえ、ふう。 「てふてふは、幸せだよね。りりとふうは、幸せだよね」 何とか言ってよ、ねえ、ふう。 りりは泣きながらそう言った。 「そうね、きっと幸せよ」 りりにこんなに悲しんでもらえて。私は不意にそんなことを思って、どうしてだかまた胸の内がきらめいて恥ずかしくなった。この気持ちは何と言うのだろう、この気持ちに名前はあるのだろうか。山椒魚の爺さんなら知っているだろうか。 そして私はまたりりの悲しみに暴露して、私は更に悲しくなった。性懲りも無く泣き出したくなった。りりは火花だから泣いても泣いてもすぐに蒸発してしまう。りりの涙が蒸発して空に昇っていく様はさっきのてふてふの青さと似ていた。私が代わりに泣いてあげられたらいいのだけれど、私はどうしてだか泣けないのだ。私は水とは仲が良いけれど、塩の水とはあまり仲良くできないのだ。だから代わりに泣いてあげられない。だからごめんなさい、りり。 「分からないの」 「何が分からないの」 「どうしてこんなに悲しいのか」 てふてふが死んで悲しいのか。主様を焼いてしまって悲しいのか。てふてふが主様の所へ還ってしまって、もう二度と会えないのが悲しいのか。 「全部かな。全部かもしれない」 りりの涙の行く末を見上げると夜空の星になっていくようだった。 「ふうも、悲しい?」そう問われて、 「うん、悲しいよ」そう答えた。 りりが泣いてしまって、私は酷く悲しいよ。そうは言えなかった。 私は決して、りりには分からないだろうと思ったのだった。りりは死なないから分からないだろうと思った。りりは火花、ぱちぱち弾けるものの化身。ナンキンハゼのようにりりは居なくならない。乾き、風ある所にりりは生まれる。だから決してりりには分からないのだ。どんなに分かろうとしても、それは努力に域を出ることはなくて結局肌で感じるだけのもの。感情の深部で湧き出るように理解することは永遠にないのだ。 私は雨が止み水源が絶えれば死んでしまう。だからなんとなく分かる。私とりりは共に死からは遠いものだけれど明らかにそこには見えない仕切りがあって、私はそれが酷く非道いと思う。だからそれを懸命に理解しようとするりりを私は敬う。 りり、あなたはすごいひと。私に無いものをたくさん持っている、あなたはとてもすごいひと。私はそんなあなたの傍に居られることが、それだけでひどく幸福なの。 「いつか、主様に会ってみたい」 りりが言った。 ええ。 「会いに行きましょう、主様に」 私は答えた。 それが例え森の外に出ることになったとしても、まあ別にそれでもいいかと思えた。りりと一緒に居れるのなら。何よりりりが一緒に居ると言ってくれているし。そう、約束してくれたのだし。 ただひとつ主様に言うことがあるとすれば、りりには優しくしてほしいなと思った。どれだけ私を乾涸びさせてくれてもいいから、りりにだけは優しく膝を折り曲げて指先で頭を撫でてあげてほしいと思った。何処までも私はりりのことになると我儘になれるのだろう。だからまありりが居れば大概のことは何でもいいかと思えるのだ。 星空が消えた、私達はそれを見ていた。私とりりは本当に小さな、ごくごく細やかな世界に住んでいて、てふてふを探しにいくことですら私とりりにとっては大冒険なのだ。だからこの世界を守る主様に会いに行くとなれば、どちらかが消えて無くなることだってあるかもしれない。その時消えるのは多分きっと私だろう。私であるべきだろう。私が必ず、その時の私にそうさせるだろう。 私達ふたり、初めて命の終わりと始まりを見た。あのてふてふが廻って来るまで、私とりりはこの世界に居られるだろうか。ふたりでこの森を散歩していられるだろうか。こんな場所で、そんなことばかり考えていた。 「朝だね」 「うん、夜明けだ」 光の帯が消えていく。明暗の狭間にふたり、のまれる。 「ふうの瞳、」 りりの指先が私の目蓋を撫ぜた。 「主様の翅の色に、少しだけ似てる」 森に陽射しが訪れた。雲の切れ間から少し寒い朝焼けが降り注いだ。私とりりは手を離さなかった。きのこ達が言うように、私達はふたつでひとつのものになってしまったのかもしれなかった。 「りりが死ぬ時、ふうは傍に居てくれる?」 うん、と私はすぐに馬鹿みたいに頷いた。 少しだけすれ違っている私達。気付かないふりをしたかったけれどできなかった。私の胸の内の火花が叫んだ。あなたは死なないじゃない、りり。それにもし例えその時が訪れたとして、あなたが傍に居て欲しいのは私なんかじゃないんじゃないの?だからこそ、私は替えの効くあなたを喪わせたりしない。その言葉を私は何があろうとも言えなかった。 一生、一生をかけても、言うことはないだろう。今も。 「もちろん、傍に居るよ」 傍に、居させて。私なんかの瞳でよかったらいつだって貸してあげる。なんならくり抜いてあなたにあげる。 じゃあ私が死ぬ時はどうなるんだろうな。りりは傍に居てくれるだろうか。あなたは踊ってばかりだから居てくれないだろうな。でもりりの悲しむ顔は見たくないから傍に居ないで欲しいなあ。ああ、でももうその時には瞳は無いからちょうど良いかな。 私は湧水のあった場所に足を晒して下草に身を横たえて、りりが火の粉を散らしながら踊っているのをただその身に感じながら。そうしながら私はじわりじわりと死んでいくのだ。ああ、それが理想だ。だからお願い、止めないでくれ。 私はりりの手を離さなかった。りりの涙は止まっていた。 「りり。帰ろうか」 そう静かに言うと、 「うん。帰ろう」 そう静かに答えた。 そして橙に燃える目で私を見つめて、 かえろうね、 「諷古」 そう、りりは言った。 りりは舞い踊らなかった。 私はそれが少し悲しかった。 久方ぶりに名前を呼ばれた。 それが少し疎ましく、寂しかった。 逆さ鱗に刻まれてあるその名前が、私はあまり好きではない。けれどりりはそのことをまだ知らない。永遠に知られたくない。 私とりりは手を繋いで、私達は私とりりの棲みかへと足を向けた。ふたつでひとつの家へと帰っていくのだった。
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