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三章「山桜梅」
こんばんは、私の国。そしてこれからもずっと、どうぞよろしく私達の国。
私は一番深い水底で両眼を隠して両耳を覆って光も夢も全て閉ざして、尾っぽと翼を丸め込んでは硬く遠く縮こまっていた。放っておいて欲しい。放っておかれているのにそんなことを思った。このまま私のことなんて誰も見つけなければいいのに。私が死ぬのはいつだろうか。早くその時が来ればいいのに。
りりの声が蘇る。私はより一層耳を覆う、爪が食い込み赤が掠める。
『もう私達、ずっと一緒には居られない』
吐いた。思い出すたびに水の中で吐いた。一体何が、もう、なのか。何をもって、ずっと、なのか。今更ちゃんと吐けるものなど私の胃袋の中にはとっくに無く、すっからかんのまま私はひたすらに酸だけを吐いた。その度に喉が焼けて私は声が出なくなり、次第に暖かい水すらも飲み込めなくなった。私が吐いた青いもやは鱗粉のように辺りを舞いすぐに下流へと流れていった。
弱りの香りを嗅ぎつけたのか近くを耳の垂れた女の鮎が通り過ぎて行った。えらに瑪瑙なんぞを埋め込んで、水底に差し込んでくる光がちらちらと反射しえらく洒落込んでいる。
「婚姻か」嗄れた声で問うと、
「ええ、今から式なの」弾むような声が返ってきた。
「お相手は」
山椒魚じゃないことを祈るばかりだが、と私は思った。彼女は私の血を思い切り吸い込んで答える。
「北に住んでるヤマメさんよ。大きな尾ひれが素敵でね、小石のお手玉が上手なの」
そう。私は口先だけで答える。意に介した様子もなく、
「あの方ったらお歌もダンスも上手でね。タップしながらくるくる回ってみせるのよ。もし良かったら貴女も見に来る?」
そう軽く誘われたが私は丁寧に断った。今は誰の踊りであっても目にしたくなかった。その旨を何重にも不器用ながらに貝殻に収めてそっと手渡した。どうして目も耳も口も閉じているのに、私はこの鮎と話しているのか不思議で不思議でしょうがない。いっそ頭ごと食いちぎってやろうか。
「ごめんなさい」私は言った。
「貴女の式へは行けないわ」
「あら、いいのよ。気にすることなんかない」と鮎はようようにして言った。随分とお喋りな鮎だった。
「これも何かのご縁だから。近々使いのものに何か届けさせるわね」
だって貴女こう言ったらなんだけど、顔色がまるで焚き火の後の炭色よ。まあ私本物は見たことないんだけれど、と続ける。
「竜は肉が好きでしょう。私も血の気の多いものは好きなの。丸々太った百足なんかが特に。殻を剥く時の青い血が好きなのよ。貴女はどう?お好き?」
ぺらぺら喋る鮎に、うん、好きよ。聞かれたままに答えた。
「じゃあ決まりね。一級品の山羊肉を届けさせるわ、約束する。貴女の固い鱗のほっぺも地面までずるりと落ちちゃうかもね」
ウフフと笑う。私はつまらない話にだんだんと眠たくなってくる。うん、うん、と返しながら頭を水底につける。ざりざりとした丸い小石が心地良い。ああ、角が邪魔だな。あの子が両手で握って遊ぶのが好きだった私の角が。
さあ、と鮎が腰を振る。
「貴女のその酷い顔色が落ち着いて私の素敵な結婚式が終わったらまた会うことに致しましょう」
うん。
「遊びに来て頂戴な。新居にも歓迎するわ、もちろんご馳走をこしらえて」
うん。
「これでも私、良いところの娘だから安心して。粗相なんて決してしないって誓うから」
だからね、約束よ。
うん。
「あの子とふたりで、遊びに来てね」
ウィンク、頬を掠める尾ひれの波。
あの子、あの子って?私は聞き返そうとするが曖昧に言葉が消えてゆく。もうあんまり何も考えられない。強い吐き気がトタトタと足音を立てて戻って来る。がんがんと頭の中で鐘が鳴り響いている。
「じゃあ私、愛する方が待ってるからそろそろ行くわ。眠っていれば悪い夢も見るの、けれどその分良い夢も見るって決まっているのよ。その夢に沈んでいれば貴女の鱗も幾分か柔らかくなると思うから…」
思うから?思うから、なんだ。
がんがん、がんがん。鐘は鳴り止まない。威嚇したくても牙を剥けない。痛い、痛い。赤い瑪瑙。頼む、頼む、どうか早く消え去ってくれ。こぽりこぽりと音がして一瞬の、静寂。
「…諷古」
あの子の声。私はぱっと目を開けた。
「ずっとそのまま、寝てれば良いよ」
それじゃあね。
鳴り響く動悸と共に私はばくんとそいつを飲み込んだ。しかしそこにはもう女の鮎の姿はなくて、愛するものが待つ式場へと向かったのか、それとも私がなにか、私が創り出したなにものかを見たのかもう既に分からなくなっていた。
私はまた、吐いた。これまで以上に多くの青のもやを吐いた。私はまた、最後まで嘘がつけなかった。
一緒には居られない、そう告げられた。それでもあの後、私の冷たい手を掴んでくれると期待していた。なんなら私が水に入った後だって、その身を犠牲にしてでも私を追って来てくれるなんて思っていた。けれどそんな幻想はすぐに泡となって消えた。
私は今まで一度たりともりりに見返りを求めたことはない。そして私は今更ながらにそれがりりにとって最も耐えられないことであったのだろうということにやっと気が付いたのだった。けれどそれは私にとってとてつもなく恐ろしいことであり、しかし私は生まれて初めてりりに、追って来て欲しいと、待って欲しいと言われたかったのだとやっと自覚し飲み込んだ。なんとワガママでリコテキな命なのだろうか。
『ふう』
その一言だけで良かったのだ。その一言できっと私は救われた、掬われた、その深い水底からも私はすくいあげられただろう。
私達、お互いのせいでこれまでが存在するのに。だってそうでしょう、あの頃私達はふたつでひとつで、きのこ達の言うことはやっぱりきっと間違ってなどいなかったのだ。
けれど貴女はハイペリオンを目指すと言った。私はそれに着いていくと言った。それが余すことなく駄目だった。
貴女は青いてふてふを追ってきっともう今頃旅立ったのでしょう。何の用意もせず、何の道具も持たず、ただ口笛と火の粉の舞いだけを携えて。私はそれを、ただ見ていた。私はそれを、最期まで止めなかったのだ。
私とりりが始めて出会った時のこと、私達ふたりきつく手を繋いで、初めてこの目とその目を合わせた時のことを私は今でもくっきりと覚えている。それはきっとりりもそう。
意識もなかったあの頃、初めて感じたのは光、音。そして熱。轟音。
なにかと、なにか。
非常に強いなにかとなにかがぶつかったのだと山椒魚の爺さんから後になって聞いた。空から赤い流星が降ってきて、それをこの庭の主がこの私達の森でその流星を溢れ出る優しさで抱き止めたのだと。それがこの森で一番最初に起きたインパクト。そして同時にそれが今のところ最後となっているカタストロフィ。この森に元来住んでいた力の弱いもの達はその衝撃で知らず知らずのうちに全て死に絶え、その代わりに私やりりのような、そのインパクトを受け継いだ命が多く生まれた。
仕方がない。焔そのものである火龍とこの庭を守る魔法の女王、そのふたりが衝突したのだからそのくらいのことはいとも簡単に生じる。元来の魔法も多くが歪む。今まで巨木に根付いていたはずのきのこ達が隊列を組んで歩くようになることくらい、どうってことのない世界になる。けれどもちろん、ごっつんこしたふたりのクイーンの出逢いはそんな些細なこと気にも留めない。
私は声の限りに叫びたかった。私とりり、それだけじゃない、インパクトで生じたたくさんの命達はお前達が産んだのだと!貴女方の子供であると!
けれどそれはできなかった。りりはそんなことにすら気付いて居なかったし、私という意識が存在した時既にりりとはもう硬く手を繋いでいて、私という命はりりの傍に居なければとそう確信していた。
インパクトの衝撃が収まった後、夜の森は死んだような静けさに包まれた。多くのものが死に絶え腐った土に還っていく香りと、新しく芽吹き腹を空かせた荒い吐息の香りが混ざり合い私は吐き気すら覚えた。りりは眠ったままで、私はそっとその細い肢体を水辺の干し草に横たわらせた。周囲からは両脚を失い苦しむ声や翅が石化し唸る声、衝撃波で生じた命の混沌で埋め尽くされていた。私達小さきものが唯一安心して眠れる棲家は全て消し飛ばされてしまったのだから。それをあのクイーンであるべきふたりはお互いの瞳の色しか見えていない。私達のことなど毛ほどにも気付いていない。これをモウモクテキと呼ぶのだと、私は後から知ることになる。
私はりりを柔らかい干し草で包んだ。包んでも包んでも彼女の火花は干し草を燃やし尽くしてしまった。私は困り果ててしまって、乾き切ってしまっていた私の体を一度大きく水流で濡らした。そしてまた泣きじゃくりながら、それにより涙で頬を火傷しながら、芳醇な葉を幾つか千切って引き摺って横たわるりりの体をそっと包んだ。私の涙のからいケロイド、りりに垂らすと瞬く間に蒸発してしまう。その中で呼吸するりりはとても苦しそうで私は悟った。私達はもう何処にも行けないのだとそう思った。
『そいつ、そいつ、魔界の生き物だろう』
『匂う、匂うぞ、野火の匂いだ』
がらがら声で、背後からりりへの罵声が飛んできた。私はその罵声を手で掴んで粉々に砕いてテンデバラバラなところへ投げ捨ててやった。茂みからきゃあははと嘲る声がする。今度は右の葉と葉と隙間、ぎらぎら光る目を荊から覗かせながら、
『早く闇へ追っ払っちまいな。煤臭くて敵わんわ』
そう吐き捨てられた。りりのことを捻れた長い爪で指差しながらケダモノ共がそんなことを宣う。指を立てて睨みつけて呪呪の言葉をぶつけてそしてりりを悪者のように言う。
『魔の焔など見たくもないわ!』
りりは私達の仲間なのに!あの幼いクイーン共の肢体の絡まりで生まれただけの、私達が住むこの森のれっきとした命であるのに!
私は自身の内側に渦巻く何かがごぼごぼ溢れ出さんと足掻くのを感じた。牙が伸びた、鼻づらに寄る皺、グルルと逆巻く喉。ぶわっと風のように疾る、沸き立つ私の背を覆う鱗。りりにこんな姿を見せたくなくて、横たわるりりに背を向けて化物が潜む茂みをぎろりと全て見渡した。茂みが少し揺れてざわめきが広がる。戦わねば、戦わねば。りりを守るために。
安堵しきっているのだろう?今だけのその惨めなお前らの隠れ家を鉤爪と牙でめちゃくちゃにしてやる。全て引き裂いて根こそぎ剥き出しにして丸裸にしてやろうか。あられのない姿を引き摺り倒し、この浅瀬でその醜い顔を踏み潰して溺死させてやろうか。けれど私とりりは生まれた時から手を繋いでいた、だからそんなりりの前でこんな簡単な殺戮を見せつけるわけにはいかなかった。だってりりは私の片割れだったから。私の左心房であったのだから。私だけの思考でそんなこと軽はずみにはできない。
「りり」
私は振り返って包まれているりりの顔を見た。呼吸がどんどん浅くなっている、弱い橙の火の粉。薄い目蓋が少しだけ開いて、
「…りりって、だあれ?」
りりは弱々しく私に問うた。そうだ、私達は生まれだばかり。名前など持っていないのだ。だからわたしは答えた。
「りり。貴女がりりよ。ちりちり火花みたいに燃えているから、りり」
綺麗だと思ったの、貴女の姿。聞こえる?りり。
「そっか」
目を閉じてりりは笑った。
「貴女が付けてくれたの?」
「そうよ」
勝手に、
「ごめんなさい」
そんなことない。
「嬉しいよ」
「嬉しい?」
「りりって名前、すごく可愛い」
うん。言葉に詰まった。
「そう。…なら、良かった」
うん、うん、そうでしょう、世界で一番可愛いの貴女は。だからほんの少しだけ、どうか少しだけ待っていてね。私はりりを包む干し草や深緑の葉を全て水流に任せて流した。そして私はまた奴らの方へ振り返った。
りりをここから追い出そうとする連中、魔界とかいうこの森ではない世界。後ろでこそこそも話す輩ども。早く死ね、早く死ね、とりりの灯火が消えるのを今か今かと待っている腐海共。くすくす、くすくす。その火の粉の屍は、水竜、お前が魔界に持ってお逝きよ。それが良い、名案だ。火葬だ!火葬だ!火の海に沈めて骨まで残すな!諸手を挙げて大はしゃぎする汚らわしい愚かな老婆共。こそこそ、ひそひそ、相変わらず内緒話が大好きなのねバーバヤガ。かわいそうに、お前の足は永遠に腐り落ちたまま、また雪の中で独り手頃な枝を探さねばならなくなるね。醜く朽ち果てたチェンジリングの成れの果てよ。
「黙れ!!」
私は茂みに向かって吠えた。しん、と一瞬で呪いの言葉は消え失せた。
「りりはここで生まれた。私とりりは、この森で手を繋いで一緒に生まれたのよ!」
私の獣が走り出す、ぶっ壊れたまま止まらない。どんなに熱くたって冷たくたって、私達は決してこの手を離さなかった。
だから。息を吐いて、水よ、どうか味方をして。
「りりは何処にも行かせない。決して何処にも行かせない。私とりりはこの森で、ふたり永遠に暮らすのよ!」
そう、吠えた。翼を広げ大きく風を起こした。私は弱くなどない、負けてたまるものか。私がりりを守り抜くのだ。
茂みに隠れていた邪悪さ共が口を閉ざし後退りするのが分かった。私が空腹であることに私は今頃気付いた。そうだ、殺して喰ってしまえば良いのだ。皆殺しにして見せしめに吊し上げて磔にしてしまえば良いのだ。その考えが浮かんだ瞬間、私はその身を刃にして一直線に飛び出した。血と肉と臓物、太い脈から滴るものを私は一粒も遺さないから。しかし、そんな私の鉤爪は空振りした、磨かれた爪が届く一瞬前に奴らが尻尾を巻いて逃げ出したからだ。クモノコヲチラスヨウニ、とはまさにこのことであったと思う。私はその場に力なくへたり込んだ。夜は何処までも静かで、私の先程までの殺意はすぐに夕顔のように萎んでしまった。私は竜、獣なのだとその時私は悟った。私は危険だ。だからそれは絶対に心の深いところに仕舞い込んで隠しておかなくてはならないのだと私は本能的に理解した。月が出て来た、淡い月明かりの下、りりの焔がほろんほろんと融雪のように燃えている。
「りり!」
私は弱った彼女の元へ駆け寄った。私達は同じものから生まれた、言わば双子のようなもの。片割れが片割れを助けるのは、至極当然この世の理のようなもの。
「りり」
仄かに燃えるりりを私は全身で抱きしめた。強く強く抱きしめて、私の皮膚や内臓が今まで触れたことのない熱に溶け始めた。りりの焔は瞬く間に私に燃え移ってふたり焼け焦げた花蝋燭のよう。
「りり、眠らないで」私は言った。
「どうして?」
こんなに眠たいのに、とりりは言った。
もう私達は何処にも行けないのだと、最初から行けるところなど無かったのだと、私は悟った。
「りり」
「なあに?」
「私を信じてくれる?」
そう言うと、轟々と燃える舌で私の唇を奪った。そして、「大好きだよ」とそれだけ言った。
信じるわ。大好きだもの。
「貴女に私の全部をあげるよ」
だから好きにしていいよ、水竜さん。
その言葉を最期、私は本当に聞けて良かったとそう思った。私、ないし溶け合った私達は躊躇いもなくどぼんと水流へ飛び込んだ。どうなるかなんて分からない、今の私には知りっこない。私は何もできやしない、無知で馬鹿な竜なのだから。
ここでふたり死んでも良いと思った。生きることも死ぬことも私達分かりかねたまま。りりもそう思っていることが胸の奥から伝わってきた。生まれ、息をし、そして死に絶える。それがこの庭の定めでしょう。だから足掻きの時間があっただけ、きっと私達は恵まれていた。
水の中、音のない世界、私はりりが消えないようにきつくきつく抱きしめた。それによってりりの体に私の水が深々と染み込んでりりの火の粉はみるみる弱くなっていった。りりは私を火傷させないようにとほんのり背中に手を回してするりするりと撫でてくれた。大丈夫、大丈夫だよ。怖いことなんて何にもない。それによってりりから発せられる心部の炎が私の背中の鱗を焼いた。
「逆さ鱗が、あるんだね」そう、りりが水中で言った。素敵だね。
「逆さ鱗って、なあに?」私は聞き返した。
聞き返したけれどりりは答えなかった。まあ、それでもいいかとそう思えた。りりが言うならきっと、それはそれは素敵なものなんでしょう。私達知らないことばかりの世界、今更ひとつ知ったところで何になるというのでしょう。りりとふたり、こうして抱き合ってお喋りできることが私達の全てなのでしょうから。
私達ひとつあぶくの中、水流の深いところまで何処までも流れて沈んでいった。それで良いよね、これで良いよね。生まれてきた意味などない、女王達の邂逅で弾き飛ばされて生まれた、小石のように歪んだ命。母なる女王よ、あまりに勝手が過ぎませんか。ご自身でもそうは思われませんか。私達のような小さきものには、慈悲など到底与えられないのでしょうね。
ごぼり、ごぼり。私はもう最期だとりりを深く抱きしめた。りりは酷く小さかった。またこの庭で巡り巡ってもこの子を探してみたいと深く思った。だって私達は元より固く繋がれた水と火の忌み子。ごぼり、ごぼりよ、この音を忘れないでね。さよならよ。りりと会わせてくれてありがとう。生まれさせてくれてありがとう。
「主様」
りりと死なせてくれて、ありがとう。
そう思って目を閉じた瞬間、首根っこを濡れ鼠のように引き上げられた。重い、びしょぬれのまま乾いた下草の上に容赦無くぼとりと落とされる。
傘無。
それが、大山椒魚との出会いだった。
「夕暮れの絵が弾け飛んだ!もうすぐ完成だったってのに」
第一声がそれだった。やたら憐れっぽい声で興奮気味だったのを覚えている。
「俺はただ筆を片手に岩場で半分水に浸かりながらことの流れを見守っていただけだったんだ。悪いこと?何にもしちゃいないさ、ただ眺めていただけ!それの一体何処が悪いってんだ?そしたら突然光るもの同士がどーんとぶつかった、星と星がぶつかったんだよ」
そしたら、そしたら…。
「気が付いたら俺の可愛いクユが流されちまってたんだ!」
そう言って手に持つ割れたカンバスに描かれたばらばらの鮎を抱いておいおいと泣き始めた。クユ、クユ、とその鮎の名を呼びながら泣いていた。
私は喉に張り付いたりりの灰を吐きながら火傷を負った皮膚を引き摺り、りりの元へと這い寄った。りりの火の粉は先程よりも安定して燃えていて私は少しだけ安堵した。
「助けたのね」
私は口からタールを溢しながら言った。
「余計だったか?」
絵を追いかけて泳いだ先にお前さんらが沈んでた、そんだけだ。そう言ってまたおいおいと泣く大山椒魚が涙を拭って私を一瞥、
「良い色だな、お前」
粘着質で練度の高い良い黒色じゃあないか。あとでこの瓶に移しておいてくれないか。クユの模様に使えるかもしれない。
そう言ったっ切りきっぱりと泣き止み鞄をガサゴソ、赤い軟膏をこちらへ手渡しながら、「火傷によく効く。塗ったら良い」そう言った。
「ありがとう」
「いいさ」
クユは残念だが…。
その、鮎の名前?
ああ、俺の初恋だ。
そう。軟膏を塗りながら答えた。りりを助けてくれてその上軟膏まで貰ったので、
「名前は?」と聞いた。
「傘無」
「さんむ」
「傘無しでもいい」
「かさなし」
私達のその会話とも呼べないやりとりを聞いていたのか、じゃあと突然、
「おじいさんって、呼んでも良い?」
「りり!目が覚めたの?」
傘無はそれを聞いた途端、ワハハと豪快に笑い始めた。
「まだ女も貰ってないヴァージンだぞ俺は!だのに孫が先にできるとはな!こんな得なことってあるか!?」
いやぁ、長生きするもんだなぁ…とひとしきり笑った後、最後にりりの目を見ながらもちろん良いさと快く答えた。この庭で呼び名なんて何でも良いのさ。本当の名ではない、かつ無礼でない呼び名があれば、なんでも。
「じぁあ今度は俺から聞くが、ぱちぱち燃えてるお前さんはなんていう?」
そう傘無が聞くと、
「私はりり」
彼女は迷いなく答えた。
ちりちり燃えてるから、りりだよ。
「あの子が私を助けようと必死になって、酸素が尽き果てようとした私にりりっていう名前をくれたの。だからりりは今日からりり」
ずっとずっと、永遠にりりよ。どんなに火の粉が燻っても、私の名前はりり。他の火の粉達とは違うの。私だけの、りり。
「良い名だな、りり」
「ありがとう、おじいさん」
ふたりが示し合わせたようにうんと笑顔で頷いた。私はりりが笑顔であることが嬉しかった。そして柔らかな芝生に横になりながらも、耳と尾を立てながらなにか悪いものが来やしないかと辺りを警戒し続けていた。
ところで、と長い尾っぽまで伸びをしながら傘無が言った。
「この火花にそんな良い名をくれたにしてはあそこで殺意剥き出しの、ひとの話を全く聞かなさそうなあいつはなんだ?」
「ふふ、あの子はねえ」
ふたつの視線を感じて私はすぐに振り返る。
「何?」
ほら、と傘無が言う。順番だよ、順番。
「順番?」
「ああ。俺は山椒魚の傘無、こっちはちりちり燃えてるりり。で、あんたは?」
私は正直困ってしまった。この場合、戸惑う、が正しいかもしれない。
「名前はないのかい」
小さな四つ指で差されて思わず背筋に意識が向かう。翼の付け根の小さな逆さ鱗。
「この子はねぇ、名前が体に元から書いてあるの」
後ろからりりが言う。だから観念する。
「そう、書いてある。背中の鱗に」
「りりには読めないの。おじいさん読める?」
そうやってふたりして私の背中を覗き込むから私は思わず膝を抱え込んだ。翼を広げて逆さ鱗があるらしい場所をもぞもぞと動かす。視線が突き刺さってなんだかじっとしていられない感覚を覚える。これはなんなのだろう。早く終わって欲しいと思ってしまう情緒と正体をどうにか突き止めてほしいという情緒のちょうど狭間。
「こりゃ厄介だな!」と唐突に傘無が言った。
「何が厄介なの?あと、なんて読むの?」すかさずりりが問いかける。
「名は諷古」
フウコ。ふうこ。諷古。傘無が地面に書き記す。その名は私の耳元に風のように届いてするりと夜に消えていった。
「そのまま読めばふうこと読む。生まれ持った綺麗で良い名だ」
しかしなあ、と頭を掻き毟る。
「しかし、なんなの?何か、あるの?」
「逆さ鱗ともなるとな」
「逆さ鱗だと、なんなの?」
りりは聞きたがりなんだなとその時思ったのを覚えている。新しい一面が見られて嬉しかったことも。
「逆さだと、意味が逆になることもある」
文字通り、逆さ鱗だからな。
私はその後私の名前に関しての説明をひたすら黙って聞いていた。傘無にしてはそんなに回りくどくないし小難しい話ではなかったと今にしては思う。
意味が逆になる、諷古とは逆になる。なんとなく、そんな気がしていた。先程りりを守ろうとした時、私は気が触れそうになった。私の背中の鱗はざざあと波打ったのだ。その感覚を思い出していた。
気を付けろ諷古、と傘無に名前を呼ばれた。思わず身震いした。
「その鱗はなるべく隠しておけ。獣にならぬように体には布を纏いてその手で木通をもいで、なるだけ水と離れない暮らしをしなさい」
獣にだけは、ならないように。
私は先程追い払った、ぎらぎら光る目ん玉の連中を思い返してすぐに脳裏から振り払った。私もあれと同等なのか。私もあれに成り下がるというのか。
「水と、離れない暮らし?」
りりは火の粉だ。そんなこと可能だろうか。
「大丈夫だよ!」りりが起き上がって真剣な顔で躍り出た。
「りり、体がまだ」
そんな制止も聞かず、
「服は乾きやすい麻の布で作ろうよ!背中には切り込みを入れて翼を出しやすくしておくのはどう?あとはミモザの腰紐なんて素敵じゃないかな?ふうの青い髪とよく似合うと思うの」
「おお、火花はノリノリだな」
「おじいさん、ノリノリってなあに?」
「ああ、なんだかこう、楽しくてワアワアする…そんな感じか?」
「おじいさんも分かってないんだ!」
「おお、痛いところを突かれたな」
りりが大きな声で笑う。
ねえ、そんなのって可笑しいよねえ、
「ふう!」
今思えば、もう既に私達の呼び名は決まっていたのだ。傘無、そしておじいさん。りり、そして火花。何の違和感もなくそれを受け入れていた。
「ねえ、りり」
「なあに?」
「どうして、私はふうなの?」
「だって、ふうはふうだよ!」
彼女はにっこりと笑って言った。言い淀むこともなくそう言った。その時の笑顔を私はよく向日葵だとか紅黄草だとかに喩えたくなる。
「ふうって風みたい。風に包まれているみたいだよ。優しくて穏やかでそよ風みたいだから」
だから貴女は、ふう。
水の私と火の貴女を繋ぐのはもしかしたら風かもしれない。火で焼けた私の肌を風が撫ぜて冷やしてくれる、水を受けたりりの体を風が通り抜け乾かしてくれる。遠い昔のことを思い出した。この命になる前のことだ。透き通った丸い海月、風を受けて吊るされた珊瑚が海月とぶつかって微かな音を立てるのだ。ちりん、ちりん、と爆ぜるように。その音を聞きながら、そのものの下で色のついた氷を食べた。なんだったかしら、なんだったかしら。そう、あの、花の模様の紅は。爆ぜて鳴り止まぬあの鈴は。
風鈴。そう、風鈴だ。思い出した。大好きだったのだ。
「ふう」
だから私はこの呼び名が好きになった。まるで両腕を広げたままの、投げっぱなしの呼びっぱなしの名前。拾われなくたって良い、ふうという名をりりだけが呼んでくれたらそれで良い。だから、より一層大好きになったのだ。
それからというもの私はこの水場を私とりりの棲家とし、私は足繁く傘無の元へ通うようになった。この水場を棲家としたのも傘無の提案だった。
「日当たりも良い、乾いた木や松笠もよく落ちている。その間には川の流れと濡れた岩場、滝壺もある。お前さんと火花にとってはこの上ないほど暮らしやすい場所だろう」
確かにその通りだった。りりはすぐにここを気に入り、焚き火をして遊んだり朽木のうろで眠ったり、ここの暮らしによってみるみるうちに明るく元気になっていった。くるりくるりと舞い踊り、私はそれを見ては手を叩いて口ずさみ、それが日々の当たり前に組み込まれていった。傘無の住む上流までは私は翼で川の流れを突っ切って逆流した。楽なことではなかったが、私達がその時安心して暮らす上で必要不可欠なことだった。私が居ない間はりりと仲の良いランプの小鳥達が岩と岩の隙間に巣を作っていた。りりはよくその岩に焼きヒビを入れたりして彼らが安心して卵を産めるよう、できる限りの手伝いをしているようだった。そして何より、私が邪悪なもの達からりりを守るためにあの一瞬だけ獣になって力の限り脅かしたこともあってか、私たちのなわばりはその時この森で最も安全だったと言っても過言ではない。
傘無は言った。
「水竜。そこまでする必要はない」
そう言った。どういうこと、と私は聞き返したのだと思う。
「火花を思うお前の気持ちも分かる。だがな、こんなところに来ることよりもお前にとってもっと大切なことがある」
私は慎重に返事をした。少しざわついていた、胸の内側が。
「…何」
「お前は火花と一緒に居てやるべきなんだ」
そう言われた。りりと暮らす。つまり水のものが火のものと暮らす上で大事なこと、必要なこと、頭に入れて決して忘れてはならないこと。そんなことよりも傘無は、りりと共に居てやる、ただそれだけのほうが大切だと言ったのだった。
「お前の名前を逆様には決して呼ばない、そんな存在は火花だけだ。お前は、火花と共に居るべきなんだよ」
なあ、頼むよ。俺の可愛い孫娘達。
あの子のようにならんでおくれ、どうかあの子のようにだけにはならんでおくれ。そう言ってたまに細やかな涙を流した。
分かった。私は彼を宥めた。
「分かったから、傘無」
もう、ここへは来ない。
「私、りりとできる限り一緒に居るから」
「約束してくれるか?」
必ず。
「ええ」
ヤクソクするわ。
まだその時約束の意味を教えてもらってなかった。クユ、クユ、と傘無はさめざめと泣いた。私は理解した。もうここへは、私達のために来る必要はないこと。そして私はできる限りりりの側にいること。それだけを胸に私はその日の夕暮れ、川を下った。
今日は早かったんだねと嬉しそうに笑うりりを見て、傘無は正しかったのだと思った。私の存在がりりにどういう影響を及ぼすか、私は考えたことがなかったから。水の竜が火の粉の女の子に、ではない。私と言う個体が、りりという個体の情動にもたらす影響についてだ。
「もう何処にも行かない?」そうりりは言った。
「うん、行かない。約束する」そう私は答えた。
私達はお互いの身が持つ時間ぎりぎりまで抱き合って離れた。片手で数えられるたった砂粒三つ分の時間が私は何よりも大事だった。
「ふう!」
りり。貴女がそう呼んでくれる限り、私は化物なんかにならずに済む。だから私は貴女を守る。貴女とずっと共に居る。
私はふうで、りりはりりで、ふたりでひとつのものだけれど、それでもなお私達は今までずっと手を繋ぎ続けてきたのだ。
だから、この世で私ほど明瞭な生物はいないだろうと、そうこの仄暗い水底で思う。
この庭の主さえ恋焦がれる瞳と瞳で声の喧嘩をするというのに、私はりりを愛するということしか持ち合わせていないのだ。私がりり、貴女に背いたらこの私の一切合切を全て奪ってくれ。けれどりりは決してそんなことしないのだ。分かっていた。私は私、りりはりり。双子のようなものだけれど、やはり片割れであることには違いない。厄介なものだ、決して同じ命ではないとだと分かっていたのにどうして失敗してしまったのだろう。私達はふたつでひとつだけれど、交わることのない半分半分の命だったのに。ちゃんと、分かっていたつもりだったのに。
鮎の女が言っていた。ふたりで遊びに来てと。もしくは私が作り出した幻影がそう告げていた。もしそうならば、いや、もしそうでなくとも、私は。
「追いかけなくちゃ」
りりを追いかけなくては。
だってこの半分の命である私が、もう半分の命であるりりと共に居たいと思ったのだから。使命ではなく、宿命でなく、運命付けられているわけでもなく、私が私としてそう願ったのだから。
「りり」
私はざばりと岸辺へ上がった。何日ぶりのことだろう。もう吐き気はなくなっていた。鼻から大きく空気を吸い込んだ、あれじゃない、これでもない。火の粉の香り、毎日共に居たじゃないか。あの子の火の粉を追いかける、薄れた灰の痕跡を辿る。りりの焔はもっと柔らかくて優しい、まるで陽だまりのような。
西だ。
私は翼を広げて下肢に力を入れて飛び立った。竜は一度覚えたことは決して忘れない、だからあの子も必ず見つけられる。眼下に私達の棲家、川の側で傘無が私を見上げていた。
「行くのか、諷古」
私の名前越しに彼の私達への感情が伝わってきた。なんだ、奴もなんだかんだと言いながら私達のことに関してはことさらシンパイショウなのだ。これでは喰った恋人に妬かれるな。私は少し笑って、
「ええ、行くわ」そう答えた。
「帰ってこい。りりも連れて、必ず」
私は風を起こしながら、分かったと一言答えた。仕方ない、爺さんだからよりシンパイショウになっているのだ。そして私達は孫だからより一層メニカケテイルに違いないのだ。優しい絵描きの山椒魚。
傘無。
「必ず帰るわ」
「ああ」
「それまで、ここをお願い」
「ああ、もちろん」
私に好きなものなどほとんどない。けれど私を見上げる彼の黒真珠のような瞳はほんの少しだけ好きだと思った。
傘無。
「絵を、台無しにしてごめんなさい」
あんくらい、
「いくらでも描いてやるさ」
うん、ありがとう。じゃあ、傘無。
「魚を、三尾捕まえて待っていて」
必ず帰るから。
答えは聞かず私は身を翻し風に乗った。
それまで私達の棲家は彼が守ってくれるだろう。きっとまた三人で食事を共にできるだろう。私もりりと同じで初めて森の外に出るけれど、どうせりり以外何も要らないのだ。持っていくものなどないだろう。
外の庭はどんなところだろうか。例え真っ暗な砂漠であってもりりはちりちり光って目立つから、上から見下ろせばきっとすぐに見つかるだろう。私がりりを追いかけて来たと知れば貴女はどんな顔をするだろう。
泣いたり笑ったり驚いたり、けれど踊ることだけは間違いない。
なんでも、良かった。ただ今は、りりの顔だけが見たかった。片割れの心臓に触れて、暖かいとだけ言いたかった。
りり。
「少しだけ待っていて」
私は遠く西の果て、主様の元へと速度を上げる。星空の夜に、ひとり。
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