愛の病

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 明の母親の入院先も、明が行きそうな場所も、私は何も分からない。私は、明のことを何も知らなかった。  毎日、明を思って泣いた。それでも私は卒業論文や試験に向けてちゃんと現実の中を生きていく。明がいない人生なんて考えられないと思っていたのに、私の生活は明がいなくても着実に前へ進んでいく。  自分も忙しいはずなのに、透は頻繁に会いに来た。でも明の話はしない。あんなにも私達の生活の中にいた明を、不自然に避けて会話をする。  就職した後も、透は時間を作っては会いに来た。会えない時は電話やメールが来る。次はいつ会おうかと約束をする。いつしかその大きな体に抱きしめられるようになった。  明を忘れたわけじゃない。でも、明はいない。寂しさで出来た隙間に、透はとても優しく、とても上手に入り込む。その温かさを拒絶出来るほど、私の心は強くなかった。明を思い続けて泣きながら過ごす毎日が苦しくて、当たり前に存在する電話もメールも約束も全てが心地よくて、明を忘れてこのまま透と一緒にいてしまおうと思った。 「無理に忘れなくてもいいから。」 透は優しくそう言う。ぶっきらぼうな透が、一生懸命言葉を紡ぐ。この人は、私に愛をそそいでくれる。明から貰えなかったものをたくさん、私にくれる。  初めて透と体を重ねた時、明のことは思い出さなかった。目の前のぬくもりを、望めば触れられる幸せを、ただ噛み締めた。 「絶対に幸せにする。」 最初のプロポーズから三年が経っていた。 「だから、結婚しよう。」  出産を機に退職し、息子の翔真(しょうま)と毎日を過ごした。透も翔真の事をとても可愛がり、私に対しても変わらず優しい。慌ただしくも穏やかな日々だった。  毎日の生活の中で明を思い出すことはほとんどなくなった。それでもまだ時々、明の夢を見る。明の姿を見ると、苦しかった。そしてその度に私は明に尋ねる。どうしていなくなったの?と。でも明は笑うだけ。何も答えてはくれない。そして明は手を振る。何も言わないまま、手を振って消えていく。そんな夢を何度も見た。  よく晴れた冬の日の午前中、翔真と一緒に公園にやって来た。翔真が遊ぶ砂場の外にしゃがんでいると、ふと視線の先に一組の家族連れがいるのが目に入った。私と同年代くらいの夫婦と、翔真より小さな女の子。何気なく目に入っただけなのに、その男性に酷く既視感があって目が離せなくなる。 「···明?」 ぽろりと口からその名前がこぼれる。たぶん、違う。でも似ていた。深くニット帽を被ったその横顔が、明にとても似ていた。立ち上がり、一歩前へ足を踏み出す。 「明、」 呼ぼうとした。でもうまく声が出ない。 「ママ?」 翔真が私を見上げて無邪気に笑う。その笑顔は、透の笑った顔によく似ている。愛しい愛しい私達の子ども。踏み出そうとした足に迷いが生まれ、やがて停止する。もう足は前に進まない。  家族連れはこちらに背を向けて公園から出て行く。女の子を真ん中にして三人並んで手を繋いで歩いていく。遠ざかっていく。明かもしれない人が、遠ざかっていく。でも私の足は動かない。声も出ない。追いかけられなかった。例え本当に明だったとしても、今の私にはもう追いかける事は出来ない。  晴れない気持ちのまま夜を迎える。翔真を寝かし付けてリビングに戻って来たのと同時に透が帰宅した。 「おかえり。」 玄関まで出ると、疲れた顔をした透が微笑む。  リビングに入り、鞄とコートを片付ける透の背中を見つめる。公園でのことを、透に話してもいいのか分からなかった。あの日から、明がいなくなった日から、明の話をしたことはない。私のためにそうしてくれているのだと思う。でもずっと思っていた。透は、明がいなくなった理由を本当は知っていたんじゃないかって。 「ねぇ、透。」 その背中に呼び掛ける。 「何?」 コートを掛けている透は振り向かない。本当に口にしても良いのか、心の中で何度も何度も臆病な私が問い掛ける。 「小夜?」 透は振り向いて首を傾げる。握った拳に、ぎゅっと力を込めた。 「今日、公園で明を見たの。」 本当に明だったのかは分からない。分からないはずなのに、わざと私はそう言った。 「奥さんと、小さな女の子と、三人でいたの。」 「···明が?」 透は見開いた目で、私を見る。驚いているように見えるけれど、何を考えているのかその表情からは分からない。 「そんなことあるわけないだろ。だってあいつは、」 言いかけて、慌てたように口を噤む。私から視線を逸し、大きな手で頭を掻く。私は、何も言わない代わりに透から視線を逸らさなかった。 「···小夜が見たのは明じゃないよ。人違いだ。」 俯いたまま、小さな声で透は言う。その態度で確信する。 「どうして分かるの?」 私の語気は強くなる。透は何も言わない。責めたいわけじゃない。でも、明がいなくなったあの日の感情が蘇る。悲しかった。苦しかった。辛くて辛くて壊れてしまいそうだった。いなくなってしまったことも嫌だったけれど、何も教えてくれなかったことの方がずっと嫌だった。話が出来たのなら受け入れられる別れになったかもしれないのに。何も言わずに、私の感情だけを置き去りにしてこんなにも長い月日が過ぎた。明のことを思い出さない毎日を過ごしても、心の根底にはいつだってあの日の絶望が消えずに燻っている。 「···今日見たのが明でも、明じゃなくても、再会したからって明と一緒になりたいとか、そんなこと思ってない。私が好きなのは透だよ。でも、知りたいの。あの時のこと。お願い、透。知っていること、話して。」 透が顔を上げる。泣きそうで、でも覚悟を決めたような顔。 「詳しいことはよく分からないんだ。でも、最近発見された新しい病気があって、」 透の口から出た言葉は、私が望んでいた答えとはかけ離れている気がした。 「何の話?」 そう尋ねると透は一度深く息を吐く。 「‘愛情’とか‘幸福’を感じた時に体の中で分泌される物質が、体を壊していく病気があるらしい。」 「···何それ?」 「普通に生きていくことが毒になるって。」 「···その病気と明がいなくなったことに何の関係があるの?」 自分から聞いたくせに、答えを聞くのが怖かった。 「明が、その病気だったかもしれないんだ。」  病気だったのは、母親ではなく明の方だった。原因不明の体調不良が、小さな頃からずっと続いていたという。ある時、明の母親はふと気付く。明の体調が特に悪くなるのは、自分や家族と触れ合った後だと。明がたくさん笑った後だと。明を可愛がれば可愛がる程明は喜ぶ。でもその後必ず明は苦しんでいたらしい。  それはいつしか疑惑ではなく確信に変わったけれど、病院に行っても原因不明だと帰されるだけだったという。  たくさんの愛情を注ぎ、幸せな家庭で暮らすことが明の体にとっては毒だった。母親は、父親と明の兄弟を残し明を連れて二人で暮らし始めた。それがあのアパートだった。幼い明に出来る限り触れず、笑顔も向けず、ただ明の体調が悪くならないことだけを考えて明と暮らした。でも明は、笑わなくても、自分に触れなくても、母親が自分を愛していることを知っていた。その見えにくい愛情さえも感じとり、母親に向かって笑う。そして体を壊す。時には起き上がれない程に。  そんな状態の明を小学校に行かせることも出来ず、結果六年間不登校という形で過ぎてしまったという。  成長する中で明は体調を崩すことが少しずつ減っていった。明自身が望み、母親の反対を押し切る形で中学校には登校するようになった。そして私や透と出会う。  病気の母親の世話をしていたというのは嘘。透が知っていた真実は、想像よりも残酷だ。明が休みがちだったのは、自らの病気のせいだった。私や透と一緒にいる時、明はいつもよく笑っていた。本当に楽しそうだった。でも、それが明の体を壊していたなんて思いもしなかった。 「透は、いつ知ったの?」 「中二の時。明といる時、偶然明の母親と会った。明が笑ってるのを見て血相変えて走って来た。 ――友達なんていないって言ってたじゃない。学校でもちゃんと一人で過ごしてるって言ってたじゃない。死ぬかもしれないのよ。分かってる?! ってすごい剣幕で。」 言葉が出ない。 「その後明から事情を聞いた。診断はないけれど、恐らくそういう病気なんだ、って。」  明の母親が救急車で運ばれたのは本当だった。でもそれは、母親が長年の病気を悪化させたわけではない。明と暮らす日々の中で少しずつ心が壊れていって、あの日自ら消えてしまおうとしたらしい。 「小夜と明が、お互いに好きだったことは俺も分かってた。でもそういう病気だから、明が小夜のことを受け入れることはないと思ってたんだ。」 だから、私が明と付き合うようになったと話した時、透はあんなに驚いた顔をしていたのか。 「小夜と付き合いだして、バイトも始めて、前より元気そうだった。明自身もそう言ってた。それでもまだ寝込む日はあるし、小夜に触れることは難しいって。俺の小夜に対する気持ちを知ってか知らずか、馬鹿みたいに正直に話すんだ。でもどうせ明は触れられない。いつかダメになって別れるんだ。ずっとそう思ってた。」 透は自嘲するように薄く笑う。 「明がいなくなる三日前だった。久しぶりにバイトが一緒になって、帰りに明から‘話がある’って言われた。」 明がいなくなる三日前···その日、私は明と会っていた。あれが最後だった。いつもと何も変わらない様子の明と、笑って別れた。‘これからバイトなんだ’と手を振る明に、私は手を振り返した。 「‘近いうちに、死ぬかもしれない’って、あいつ笑って言ったんだ。」 その言葉に、息が止まる。 「ねぇ、待って。じゃあ明はもう···」 透は黙ったまま俯く。たぶんそれが答えだ。 「どうして?小学生の頃に比べて元気になっていたんじゃないの?」 顔を上げた透が小さく頷く。 「明もそう言っていた。でも気付かないうちに体の中はボロボロで、受診した時にはもう取り返しのつかない状態になってたらしい。」 言葉が出ない。少なくとも、私の前では元気そうだった。いつも笑っていた。明自身が病気だなんて、疑ったことすらなかった。透の話が事実だとするならば、きっと明は必死に隠していたのだろう。 「···私の、せい?」 笑うことすら毒になるというのなら、私と過ごしたあの日々は紛れもなく明にとって毒だったはずだ。 「私が明に声を掛けて、私が明を好きになって、私が明のそばにいたから?私がいなければ明は、」 明と過ごした日々が走馬灯のように浮かぶ。あの時間は、すべて明にとって毒だったのだろうか。私が、明を苦しませていたのだろうか。 「そうじゃない。そうじゃないんだ、小夜。」 両腕を強い力で掴まれる。滲む視界の中、目の前に透の顔がある。 「小夜、聞いて。」 少し大きな声で透は言う。その大きな手に両腕を握られたまま、私は涙を流す。 「事実はそうかもしれないけど、明はそんなふうには思っていなかった。」 「だって私のせいでしょ?」 「そうじゃない。明は、こう言ってた。」 ――母さんが僕を守ってくれていたのは理解出来るんだ。それでも僕は、好きな人達と笑い合える生活がしたかった。 明。 ――小夜ちゃんが大好きだった。小夜ちゃんにはほんの少しだって、自分を責めて欲しくない。僕にとってあんなに幸せだった時間を、一番大事な小夜ちゃんに否定して欲しくないんだ。 明、明。 ――小夜ちゃんには誰よりも幸せになって欲しい。でも僕といると、小夜ちゃんはいつかきっと母さんのような思いをしてしまう。だから透くん、 明、明、明。 ――長い間、僕を小夜ちゃんの隣にいさせてくれてありがとう。小夜ちゃんと、幸せになって。  明が、どんな顔をしてそう言ったのか簡単に想像出来た。笑っていたのだろう。とても穏やかに。  明が作ってくれた未来に、今私は正しく立っている。置き去りにされたのは私じゃない。私が、明を置き去りにしてここまで進んできた。だって、私はもうあの頃には戻れない。もしまだ明が元気でいたとしても、透と翔真のいるこの幸せで穏やかな生活をもう手放せない。私にとって、もうあの日々はちゃんと‘過去’になっていた。公園で、明かもしれないあの背中を私は追いかけなかった。追いかけられなかった。それが、私の答え。明への恋の終わり。  明の優しさに、自分のずるさに、涙が止まらない。透の話を聞いて、私は思ってしまった。透を選んで良かった、と。どうしたって私と明の未来は、幸せなものにはならなかったのだから。 「私は、ずるいね。」 透の腕の中で私は泣きながら呟く。 「···ずるいのは俺の方だ。」 私の言葉の意味が透に伝わっていたのかは分からない。でも透はそう答えた。 「事情を知っていたのに何もしなかった。明が自ら離れていくのを、ただ待っていたんだ。」 顔は見えない。でも、透の声が泣いているように聞こえた。  眠れなかった。でも心は穏やかだった。同じベッドで眠る透と翔真の顔を眺めていると、カーテンの隙間から漏れる光に気付いた。 夜が明ける。 きっと、明のことは忘れない。でももう戻れない。 愛しい人に触れられるこの世界で、私は今日も生きていく。 ねぇ、明、 あなたを思い続けた長い夜が、 今ようやく明けていくのだと思う。
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