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明は不登校の同級生だった。
同じ小学校に通っているはずなのに、名前だけが作り物のように存在する、実在するのかどうかも分からない子。いつも同じ場所に置かれた空っぽの席。明は、六年間たった一度も小学校に来なかった。
私と透は幼馴染で、いつも一緒にいた。二つ上の兄や透とばかり遊ぶ私は、女の子の集団に馴染むことが出来なかった。女の子の集団に馴染めなかったから透たちと一緒にいたのかもしれない。本当は髪を伸ばしてみたかったし、可愛い服も着たかった。でもそういう見た目で男の子とばかりいるとさらに居心地は悪くなる。一番楽に生きていくために、私は髪を短くし、兄のお下がりを着続けた。
短い髪のまま袖を通した中学のセーラー服。スカートなんていつ以来か分からない。兄が後ろでニヤニヤと笑う。似合わないことは鏡を見た自分が一番よく分かっていた。制服を着ている私は、‘女の子’だ。憂鬱な気分で家を出た入学式の日、大きめの学ランを着た、私よりずっと背が低い透と一緒に中学校へ歩いた。
「ぶかぶかじゃん。」
そう言うと透は私を一瞥する。
「うるせぇ。」
そう言うだけ。私がスカートを履いていることを、透はからかわなかった。
透とは違うクラスだった。一人で教室に入り黒板に掲示された座席表を確認すると、私の名前の隣に見たことのある名前があった。座席表から、座席の方へ視線を向ける。見た事のない男の子が座っていた。初めて見る顔なのに、何故だかすぐに分かった。たぶん、座席表の名前を見ていなかったとしても分かったと思う。
あれが‘明’だ、と。
綺麗な、男の子だった。細い体。肌は白くて、伏せた目元は触れてみたくなるほど長い睫毛。学ランを着ていなければ、男の子か女の子か分からないかもしれない。不自然に立ったまま明を凝視していると、ふと目が合った。
「···おはよう!」
そう言うと、明はその綺麗な顔を綻ばす。
「おはよう。」
人の顔を見てドキドキしたのは初めてだった。他の誰にも感じたことのない胸の高鳴り。キラキラと輝いて見える明の笑う顔を、私はもっと見たいと思った。
明はよく笑う。私の話を、穏やかに時には声を出して笑って聞いている。トイレ以外で、私も明も自分の席から離れることはない。隣の席で、ずっと話していられた。
明は透ともすぐに仲良くなった。ずっと笑顔でいる明と、ぶっきらぼうの透。正反対に見える二人だけれど、透も明もお互いのこのが好きだったと思う。放課後、私達はよく三人で過ごした。男の子みたいな私と、女の子みたいな明と、小学生みたいに小さな透。チグハグは私達は、きっとあの場所で浮いていた。でも怖くなかった。だって、私の隣には明がいたから。明といると、それまで私が感じていた漠然とした不安から解放される気がした。
明が学校に来ると嬉しかった。明が笑うと温かかった。明。明。明。毎日明のことで頭がいっぱいだった。透と二人でいる時も、私は明の話ばかりしていたと思う。
でも明は毎日は学校に来ない。多くて週に三日。酷いと一週間ずっと来ない時もある。
「なんでそんなに休むの?」
そう尋ねると明は笑う。
「元不登校だからね。毎日だと疲れちゃうんだ。」
ふざけているのか真面目に言っているのか分からない。少なくとも学校にいる時は元気そうなのに。掴みきれない明にもどかしさを感じることもあった。
三人同じクラスになった中学三年の二学期半ば、明は二週間以上学校に来なかった。家も連絡先も知らない私は、心配で、毎日のように先生に明はいつ来るのか尋ねた。
落ち着かない私にしびれを切らした透が、帰り道に私を知らない場所へ連れて行く。同じ小学校区のはずなのに、初めて来る場所だった。そしてここに、明の家があると言う。透は明の家を知っていた。
私は知らなかったのに。
辿り着いたのは、古いアパート。透はアパートの一室の前に立ち、その扉を叩く。インターフォンは壊れていて音が鳴らないらしい。その慣れた様子で明の家を訪ねる透の横顔が、私よりずっと明に近い所にいる気がして嫌だった。
「え、小夜ちゃん?」
開いた扉から顔を出した明は、私の顔を見て驚く。透がいることには驚かないのに。その表情に、その態度に、私の心は小さな痛みを覚える。
初めて訪れた明の家は、物が少なく生活感が感じられない。決して裕福ではないのだろうとは思うけれど、単にお金がないからこういう部屋になっているわけでもない気がした。
物がない部屋の真ん中で、机を挟んで三人で座った。他愛もない話を繰り返す。元気そうに見える明がどうして学校に来ないのか、私は聞けなかった。聞けない代わりに、久しぶりの明の笑顔が見たくて必死に話をした。明は、学校で会う時と変わらずよく笑ってくれた。
「小夜ちゃん、来てくれてありがとう。」
明は無邪気に笑う。私がいつもどれ程明のことを考えているのか明は知らない。透の方が、私より明の近くにいた事にこんなにも傷付いていることを、きっと想像すらしないだろう。
中学を卒業し、私と、少し背が伸びた透は同じ高校に進学した。明は、受験をしなかった。勉強が出来なかったわけじゃない。明はとても賢かったはずだった。
「僕の登校頻度だと高校は進級も卒業も出来ないから。」
また笑ってそんなことを言う。本当は、同じ高校に通いたかった。でも言うことすら出来なかった。
高校の入学式の日、新しい制服を着て明に会いに行った。透には言わずに。透が邪魔なわけではない。でも、明と二人で会いたかった。
卒業式以来久しぶりに会う明。扉をノックすると、少し経ってから明が出て来た。
「制服、似合ってるね。」
明は笑顔で言う。
「···ありがとう。」
褒められて嬉しいはずなのに、恥ずかしくてそっけなくそう返すだけ。その言葉が欲しくて、こうやって会いに来たのに。でも、会いに来た理由はそれだけじゃない。
私はまだ何も知らなかった。どうして明が学校に来なかったのか。どうして高校へ行かないのか。私の事をどう思っているのか。何も、知らない。今日は何か一つでも良いから知りたかった。怖くて、何も聞けなかった自分から、一歩踏み出したかった。だってきっとこれからは、今まで以上に明と会えなくなってしまう。
「ねぇ、明」
「小夜ちゃんさ、」
ほぼ同時にそう口にした私達は顔を見合わせて笑う。
「あ、いいよ。明が話して。」
逃げるようにそう言うと明は、私の目から視線をやや下に向ける。
「いや、大したことじゃないんだけど。小夜ちゃん、髪伸ばしてみたらどうかなって。」
明の視線の先は、耳の下辺りで切り揃えられた私の短い髪だった。
「似合わないよ。」
「きっと似合うよ。」
明は穏やかに笑ってそう言う。
「長い髪も、スカートもワンピースも、小夜ちゃんは似合うと思う。ずっと見てみたいと思ってたんだ。」
どう答えたらいいのか分からなくて、返事にならない声を出して私は俯く。本当は色々な事を聞きたかったのに。そんな事を言われて舞い上がって、結局何も聞けずにまた明と会えない日々に戻っていく。
まんまと髪を伸ばし始めた私。似合うはずない。そう思っていたのに、意外にも周りからの反応も良く明も「似合う」と褒めてくれた。明が「見てみたい」と言った私に近づきたくて、伸びた髪に少しずつ自信を纏わせて、可愛らしい格好をするようになった。それは私がずっと敬遠していた‘女の子’になるということ。でも、昔ほどそうすることを怖いと思わなかった。長く伸ばした髪。ピンク色や花柄のスカートやワンピース。高校の制服も似合うようになっていった。明は何度だって「可愛い」と言ってくれた。
変わっていく私に、毎日顔を合わせる透は何も言わない。それは中学のセーラー服を笑わなかったのと同じ。透は私の見た目がどうであろうと興味がないのだろう。
高校二年生の冬。明に会いに、私はアパートへ自転車を走らせた。遠くで救急車のサイレンが鳴る音を聞きながら、冷たい冬の空気を切るようにペダルを漕ぐ足に力を入れる。
アパートの敷地内に、救急車が停まっていた。救急隊員とは別に、数人が外にいる。その中に、明の背中を見つけた。
敷地の隅に自転車を停め、その背中に駆け寄ろうとした。でもその瞬間、明は救急車の中に吸い込まれるように消えていく。声も掛けられないまま扉が閉まり、救急車が走り出す。中にいるはずの明の姿は見えなかった。
自転車の隣に蹲ったままどれくらい時間が経っただろう。気付けば空は薄暗くなっていた。僅かな日差しが消え、気温が下がって来たようだった。でも明はまだ帰って来ない。明に会うまで、ここから離れようとは思わなかった。ここにいるしか、私は明に会うことは出来ないのだ。
どれくらい経ったのだろう。辺りはすっかり暗くなり、体中が凍えるように寒かった。
「···小夜、ちゃん?」
ざりっと地面を擦る足音と同時に、待ち焦がれていた声が聞こえた。ゆっくり顔を上げると、白い息を吐く明が私よりずっと薄着で立っていた。
「おかえり、明。」
寒くて凍えそうだった体が、その姿を見た瞬間体温を取り戻す。笑ってそう言うと、明は泣きそうに顔を歪めた。
「小夜ちゃん、いつからいたの?」
「明が、救急車に乗っていった時。」
「なんでそんな時間から、」
「会いたかったの。」
立ち上がって、明を見た。いつも、真っ直ぐに私を見るのは明の方だった。その綺麗な顔に見つめられると、私は恥ずかしくなって視線をそらしてしまう。でも今日は違う。真っ直ぐに明を見つめる私と、戸惑ったように視線を泳がせる明。その表情が、見た事ない程切なげで今にも泣き出しそうに見えた。私は駆け出した。
「泣いてもいいよ、明。」
私より少しだけ背が高い明。その細い体に腕を回す。冷えた体。僅かな体温がお互いの服越しに伝わる。何も言わない明が、ゆっくりと私の首元に顔をうずめた。息がかかる。そして、深い呼吸とともに小さな震えを感じた。心が、揺れる。
「···ねぇ、明。私達、ずっと一緒にいようよ。」
明から返事はない。
「恋人に、なろう。私が支えるから。隣にいさせてよ。」
初めて会った時から、明の事で頭がいっぱいだった。私の人生で、こんなにも執着しているのは明だけだった。だからいつだって不安だった。気付いたらいなくなってしまいそうなその危うさに、時々堪えられない程の不安が襲ってくる。だから‘恋人’という口約束をすることで、明を縛りたかった。この不安を、僅かにでも軽減させたかった。
「大好きだよ、明。」
返事はなかった。でも明の細い腕が私の背中に回り、ぎゅっと力を込めた。それが答えだと勝手に解釈して、私は明の背中に回した腕にさらに力を込めた。
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