愛の病

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 明は小さい頃から病気の母親と二人暮らしだった。別居する父親の援助で生活に困ることはないけれど、母親の世話は明がするしかなかったという。明が学校に来ない日は、母親の体調が悪かった日。もう十年程、明はそんな生活をしていた。  あの時の救急車は、明の母親の容態が悪くなったから。そのまま母親が入院することになり、あのアパートには明一人になった。 そう、明は話してくれた。  透とは中学の頃ほどではないけれど、一緒にいることが多かった。一緒に登校し、帰りも時間が合えば一緒に帰る。馬鹿みたいにはしゃいで遊んでいた頃の透はもういなくて、背が伸びるにつれて少しずつ無口になっていった。 「小夜ちゃんって、透くんと付き合っているの?」 同級生にそう聞かれることも何度もあった。気付いたのは随分経ってから。そう尋ねてくる子達の多くは、興味本位で聞いているのではなく透のことが好きなのだ、と。 「告白とか、された?」 そう尋ねると透は面倒くさそうに肯定だけする。 「彼女作らないの?」 「いらない。」 「なんで?」 「小夜と、いられなくなったら嫌だから。」 子どもみたいに拗ねたような顔で言う。でもきっと本当に透に彼女が出来たら、こんなふうに一緒にいられなくなるのだろう。面倒くさいな、と思う。私と透は、友達なのに。  久しぶりに透と二人でアパートを訪ねた時、私は透に明と恋人になったことを話した。透に話す機会は毎日のようにあった。でも、明の前で、明の反応を見て言いたかったからずっと黙っていた。私の言葉を、明は否定しなかった。代わりに、透は酷く驚いた顔をした。 「本当なのか?」 私ではなく明に向かってそう言う。明は穏やかに笑って頷く。それを見て私は心から安堵した。私の独りよがりではない。私が明を好きなように、明も私を好きでいてくれている。嬉しかった。  透に彼女が出来るのとは違う。私と明が恋人になっても、私と透の関係も、私達三人の関係も変わらない。ただ少し、私の世界が明るくなっただけ。  しばらく経って、明は透のアルバイト先で働き始めた。母親の退院が決まらないまま、私と透は高校三年生になり再び明とは違う進路について悩む日々が始まる。 「小夜ちゃんは、誰かを助けてあげる仕事に向いてると思う。」 明の言葉はいつだって私の中にすんなりと入り込む。明の言う事全てが私の人生を彩り、正しく導いてくれる気がする。明の言葉を指針にして、私は将来について考える。どこに進学したとしても、どんな仕事に就いたとしても、その未来にはいつだって明が存在する。  時々一緒にごはんを作って食べたり、玄関先に置く鉢植えを一緒に買いに行ったりもした。綺麗に咲いた花を見て明は嬉しそうに笑う。あまリ物を欲しがらない明にあげるプレゼントはいつもとても悩んだ。一番喜んでくれたのは、キッチンの小窓に取り付ける小さなカーテン。私の中の、明のイメージカラー。淡く、柔らかなグリーンのカーテン。そうやって少しずつ、明の家に私の痕跡を残していく。二人で過ごした証を、私が明の隣にいるこの時間を刻み込みたかった。  私は自宅から通える大学を受験した。透もまた、学部は違うけれど同じ大学を受験した。私よりずっと頭が良かった透は、もっと偏差値の高い大学に行くと思っていた。周りからもそう言われていた。 「俺は、ここから離れるつもりはないよ。」 私に透はそう言った。怖い程真っ直ぐに見つめられて。透の言いたい事が、全く分からない程私は馬鹿じゃなかった。いつからだろう。はっきりとは分からない。でも、私から離れていかない透の気持ちがただの友情ではないような気がしていた。でも私には明がいる。明のことだけが堪らなく好きで、明と歩む未来しか想像出来ない。透は大事な、友達なのだから。  大学に入学し、明に会いに行ける時間が少なくなった。どれだけ言っても明は携帯電話を持とうとはしない。アパートにある固定電話は、基本的に掛けても繋らない。私の携帯番号を教えても掛けてくることはない。会いに行くしかなかった。合鍵も持っていない私は、明が家にいなければ時間の許す限り外で待ち続ける。そのまま会えずに帰る日もあった。恋人になったはずなのに、明は遠い。  でも会えばいつでも明は私の話を楽しそうに聞き、優しく穏やかに笑っている。別れたいとか、私の事を嫌いになったとか、そういうふうには決して見えなかった。明が私の事を好きだという自信はあった。でも不安だった。大学の友達が話す、恋人との付き合い方とは違う。次に会う約束が出来ない。電話で声を聞けない。メールも出来ない。キスも、セックスもしない。時々、本当に時々、軽く抱きしめてくれるだけ。帰りたくない。もっと一緒にいたい。触れたい。触れてほしい。願望が溢れんばかりに膨らむ。でも私はその内の一つさえも口に出せない。 「明、大好き。」 別れ際、そう言うのがやっとだった。 「大好きだよ、小夜ちゃん。」 明は笑ってそう返す。愛しい。とても愛しい。明の右手が伸びて来て、私の左腕に触れそっと引き寄せられる。明の背中に両手を回そうとした瞬間、すっと距離が出来る。もっと強く、抱きしめてほしかったのに。 「小夜ちゃんの彼ってどんな人?」 友達にそう聞かれて私は答える。 「優しくて、」 これは本当。 「よく笑う人。」 これも本当。 「大学生で、」 嘘。 「毎日メールもするし、」 これも嘘。 「一人暮らしの彼の家に泊まることもある。」 これも嘘。 「会いたい時はすぐに会いに来てくれるんだよ。」 嘘ばっかり。現実の明を、私は堂々と友達に話せない。 「それで良いの?」 透が言う。責めるような言い方ではない。いつもと同じ、淡々とした口調で。それなのに責められているような気持ちになるのは、私自身が後ろめたいからだ。それで良いだなんて思っていない。でも、こういうふうにしか出来ない。 明が、好き。誰よりも、何よりも。 その柔らかな雰囲気も、 笑った顔も、 私の名前を呼ぶ声も、 横顔も、 後ろ姿も。 すべてが愛しい。 手に入れたはずなのに、いつまでも苦しい。明といる時間を重ねれば重ねるほど、どんどん苦しくなっていく。こんなにも好きなのに。  大学四年の冬、久しぶりに校内で透に会った。偶然会ったわけではない。透が、私を待っていた。  人気のない冷たい風が吹き抜ける中庭に連れ出され、透は真っ直ぐ私を見る。 「小夜、」 いつの間にか‘男の子’ではなくなった透。私よりずっと伸びた背。大きな体。幼さの欠片もない顔つき。いつから、こんなふうに知らない男の人みたいになってしまったのだろう。 「卒業したら結婚しないか?」 突然そう言われて、ただ驚いた。透が何を言っているのか理解出来なかった。だって私の恋人は明で、私に対して‘結婚’という言葉を口にするのは、明以外にはありえない。 「何言ってるの?私達、付き合ってもいないでしょう?」 困惑を、乾いた笑顔に変えて顔に貼り付ける。どんな顔をしたらいいのか分からない。 「私には、明が」 「明には俺から伝えた。」 「···何を?」 「小夜と、結婚するつもりだって。」 「···明は、なんて?」 「小夜と幸せになって、って。」 私は走った。風の吹きつける冷たい冬の街を、ただ走った。 嘘だ。 嘘だ。 嘘だ。 明がそんな事を言うはずがない。そう思いながら走っているのに、言いようのない不安と焦燥が駆け巡る。 「明!!」 通い慣れた古いアパート。壊れたインターフォン。 「明!いないの?お願い、開けて!」 返事はない。それでも私は扉を叩く。これ以外に、私がこの扉の向こう側に行ける術はない。これ以外に、明に会える術がない。心の底から込み上げてくる途轍もない不安。見え隠れする絶望を、必死に押し込める。 「明!!」 ダメかもしれない。明は本気かもしれない。私は、もう明に会えないかもしれない。  扉の前に泣き崩れた時に気付いた。そこにあったはずの鉢植えが消えていた。明と私が、二人で育てた鉢植えが。顔を上げると、小さな摺りガラス越しに見えていたカーテンも消えていた。私が選んだ、淡いグリーンのカーテンが。  押し込めていた絶望が、勢いを増して襲ってくる。 明はもういない。 この部屋は、きっと空っぽだ。 それからもう二度とあのアパートに、明が帰ってくることはなかった。      
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