幽明奇譚

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幽明奇譚

「心臓」「知らせ」「灯る」のお題をいただいて書いたものです。ありがとうございました。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ (どうにも妙な夢を見ている) 榊晃次郎(さかきこうじろう)は、気付いたら訪れたことのない和風の屋敷の縁側に腰かけていた。妙に暑い。 夢だな、という自覚はあるものの、目覚められない。なかなか怖い状況だが、却って冷静になって、辺りを調べることにした。 時間は夜。屋内は真っ暗で、縁側には火の点いていない蝋燭が一本、榊の側に転がっている。 火を点けないといけない、と思っているが、火を点けられそうなものが何も無い。 自分一人しか居ないようだが、背後の室内、屋敷からは大勢の何かの気配はする。 目の前の庭も、広い。赤い小さな橋が架かる池があり、側には簡単な造りだが、東屋まである。池には蛍がいるのか、いくつもの小さな灯りがあり、幻想的だ。だがやはり、誰もいない。 「どうしたもんかね」 とりあえず、蝋燭は手に持っておく。 屋敷の中は、灯りなしで探索出来ないし、したくない。 早く目覚めたい、と項垂れていると。 かたり、と背後の部屋の奥にある襖が開く音がした。榊は反射で立ち上がる。 真っ白な着物に、よく分からない図形の書かれた白い紙を顔に付けた人。暗闇で見たくない様子の姿であることは間違いない。表情は分からないが、榊を見ている。 (何だあれ) 一瞬呆然とそれを見たが、榊の方を向き、滑るようにやってくるのを認め、弾かれたように駆け出した。捕まってはいけない。本能が告げる。榊は暗い屋敷内をでたらめに駆けた。何せ知らない家だ。何処に何があるか分からない。 「出口ねぇのか……!」 後ろからはまだ、追いかけて来る気配がある。 夢のはずなのに、足が重たくなってきた。身体もますます暑い。 (追い付かれる) 心臓が、早鐘を打つ。真っ暗な屋敷の真ん中で、止まりそうになった時。 “左へ!” 静かに、けれど場に響くようなはっきりとした声が聞こえた。と、同時に、身体が少し冷えるような心地よい風を感じる。 「……すみちゃん?」 それは、(すみれ)の声だった。馴染みの声が急に聞こえて、戸惑いと安堵が同時に来る。 足は止めず、声の言う通りに進む。迷う度、菫の声が、進む道を知らせる。冷たい風がどんどん強くなる。 急に元気になった榊は、最初の、庭が見える縁側に戻って来た。 「あーー」 池に架かる橋の欄干。赤い矢羽根柄の浴衣姿の菫が、腰かけて榊を見ている。 火の灯る朱い提灯を片手に、提灯と蛍の淡い光に包まれた菫。背景と相まって、儚いような、溜息が出るような、そんな光景だった。 榊が状況も忘れて言葉を失っていると、菫はふわりと欄干から降りて来る。 我に返った榊は、急いで側に行く。菫は真っ直ぐに、榊を見上げる。 「榊さん、無事ですか」 「すみちゃん!何でここに、」 「そんなことより、蝋燭に火を」 菫は袂から、マッチ箱を取り出して榊へ渡す。 榊は初めから分かっていたように、持っていた蝋燭へ火を灯す。不思議と熱くない。 屋敷の方へ火を向けると、あの面の人はするすると奥へ引っ込んで行く。 榊と並んでそれを見ていた菫は、呟いた。 「あれは、火には近付けません」 「すみちゃん、これは何の夢なんだ」 榊の問いに、菫は困ったような顔で微笑む。 「夢、というより……まあ、良いです。一緒に来てください。戻りましょう」 菫は榊の手首を掴み、赤い小さな橋を進む。直ぐ渡り切ったと思ったら、榊の視界が真っ白になった。 「あんまり心配させないでくださいね。ーー榊さんが居なくなったら、寂しいじゃないですか」 いつになく優しい声音の菫の声が、いつまでも榊の耳に残った。 榊は、佐和商店近くの寺のお堂で目覚めた。 傍らに住職がいて、安心したような笑みを浮かべている。この寺の前で軽い熱中症で倒れる寸前だったところを、親切な住職に寄って介抱されていたのだ。 「良かった良かった。一時は、救急搬送も考えたんですが。知人の方にも、連絡しましたら直ぐ来てくださって」 「知人、」 あの、涼しい風を感じる。その方へ視線を向ければ。 「ご無事で何よりです、榊さん」 団扇で榊へ風を送りながら。菫は何てことの無いように言って、笑ったのである。
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