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シャワーを浴びて、ホテルを出て、男と別れて駅へと向かう途中で私は座り込んだ。
虚しかった。結局覚えたのは不快感と痛みだけで、心は何も変化しなかった。
これの何が楽しいのだろう。何が気持ち良いのだろう。恋をしていれば、これらは全て心地の良い幸せな行為なのだろうか。
無気力だった。ここまでしても、何も得られなかった。私は変わらない。変われない。変わらなければ、演出家に見てもらえない。
やはり無理な話だったのだろうか。恋愛感情が理解できないのに、女優になりたいなどと。馬鹿な女の夢想だったのだろうか。
ずっと女優になりたかった。それだけを夢見てきた。他の道など考えたこともなかった。職歴もない、新卒から二年以上経過した女なんて、今更一般企業もとらない。派遣かアルバイトがせいぜいだろう。
二十五歳も目前にして、生き方に迷うなんて。私は自嘲した。そしてきらきらとした十代のクラスメイトを思い出して、歯ぎしりした。羨ましい。恨めしい。妬ましい。
お門違いだとわかっていて、それでもこの二年間で、両親を恨む気持ちが僅かながら生まれていた。
当然と言えば当然だが、十代で学校に通いながら高額なアクターズスクールに通える子どもたちは、皆親に応援されている。学校が終わってから放課後の部活に来るような気軽さで稽古場に来れる。もしうまくいかなかったら、今のうちに才能がないのだと思い知れたら、新卒で就職活動をすることもできるのだ。
親の協力があること。東京に住んでいること。それがどれほどのアドバンテージか。
私が全てを振り切って東京に来たのは、情熱だと思っていた。女優しか生きる道がないと自分を追い込むのは、信念だと思っていた。
けれども。もっと早くに芸能の世界に飛び込めていたら。子役なら、恋愛など関係のない芝居ができたかもしれない。芝居を続けていくうちに、価値観が凝り固まる前に、恋愛感情が理解できたかもしれない。そうして大人になる頃には、自分の才能のなさを痛感して、早々に見切りをつけて普通の職に就いていたかもしれない。そんな風に青春を使えていたら、私は何の後悔もなく世間で言う「普通の大人」として順風満帆に生きていたのかもしれない。
所帯を持って、自分の子どもに「お母さん昔は女優だったのよ」なんて。
何もかも全て、若い内に始められていたら。
それができなかったから。禁止されていたから。その反動で、執着しているだけなのかもしれない。大人になって、やっと自分のことを全て自分で決められるようになって、今更青春を取り戻そうとしているだけなのかもしれない。
あれほどに焦がれたエネルギーを、自分で決めた自分の道を疑ってしまうほどに、私は何もかもに懐疑的になっていた。
意味のない「かもしれない」を頭の中で繰り返して。うまくいかないことの原因を他人に求めて。どろどろとした感情だけが、目の前を埋め尽くしていく。
未来が、見えない。
実家には戻れない。結婚もできない。一人きりで、夢を失って、その日暮らしの生活をこの先ずっと続けていかなくてはならないのか。
そんな生き方をするくらいなら、いっそ。
「おねーさん今ちょっといいですかー?」
軽い口調に、私は舌打ちした。終電も近いこんな時間に、女一人、しかも一カ所に留まっていれば目をつけられて当然か。私は立ち上がって歩き出した。
「やだなー無視しないでよ。おねーさんさぁ、芸能界とか興味ない? おねーさんならすごい女優になれると思うんだけど!」
女優。そのワードに、私は僅かに反応を見せてしまった。それに目を光らせたスカウトが、行く手を塞ぐように立ちはだかる。
「あ、興味ある? これ、俺の名刺なんだけど。良かったらこのあと事務所で話さない?」
上京して二年。私も馬鹿ではない。このスカウトが言う「女優」とは、「AV女優」のことだ。本物の芸能スカウトがこんな時間にこんな場所でこんな女に声をかけるわけがないだろう。
鼻で笑って、私は俯いた。
AV女優。それも、いいかもしれない。
女優は女優だ。AV女優なら、恋愛感情を演じる必要はない。感じる演技さえすればいい。それも、繊細な演技は必要ない。あれはカメラ映えするように動く技術であって、心情を表しているのではない。プロとして継続収入を狙うのならともかく、素人が企画モノに数本出る程度ならその技術すら求められないだろう。
どんな形でも。女優として出られるのなら。私の夢の証を残せるのなら。
OKを返そうかと口を開いたところで、スカウトと私の間に一人の男が割って入った。
「ごめんごめん直子! 待たせたな!」
謝るポーズをしたその男は、同じアクターズスクールの圭太だった。
「やっとバイト終わったところでさぁ。んじゃ、行こうか」
「おにーさんそりゃないでしょ。彼女まだ俺と話してるんだけど」
「はぁ?」
ヤクザのような凄みで睨み上げた圭太に、スカウトは慌てた様子で謝ってすぐに立ち去った。さすが、逃げ足が速い。
ふん、と鼻を鳴らして、圭太はぱっと笑顔を作った。
「大丈夫?」
「うん、ありがと」
さすが役者だ。瞬時の切り替えである。圭太はアクション俳優を目指しているので、ガタイがいい。先ほどのようにガンを飛ばすとヤクザにしか見えないが、性格は人懐っこく温厚である。十代が多いクラスで、同年代の私に声をかけてくれたのも圭太からだった。そして私のフェミニズムに理解を示してくれる貴重な男友達の一人でもある。
「駅まで? 送るよ」
「いや、いいよ」
「けど」
「今日は、朝まで飲みたい気分なの」
今家に帰っても、ろくなことにならない。暗い部屋に一人でいたら、何をするかわからない。もう酒の力で全てを忘れてしまいたかった。
私の言葉に、圭太は困ったように眉を下げた。そしてスマホを取り出し、数秒何かを確認すると、またポケットにしまった。
「よし。じゃぁ選択肢は三つ。いち、居酒屋。に、カラオケ。さん、俺の家。どうする?」
圭太の提案に、私は泣くのを堪えるような顔で笑った。朝まで付き合ってくれるつもりなのだ。さきほどのは、おそらく予定を確認していたのだろう。
一緒にいることは前提で、確認は取らない。けれど場所の選択肢はくれる。こういうところだ、この男のいいところは。
居酒屋は、明るく開けていて人目がある。安全だが、内緒話には向かない。
カラオケは、密室になるがカメラがあり、店員の目もある。込み入った話もできる。
圭太の家は、完全に相手のテリトリーになるが、一番気を抜いて話ができる。寝落ちしても問題ない。
圭太は私を理解している。家に行くことが性的同意ではないことも承知しているし、実際に昼間には行ったこともある。泊まっても何も起こらないだろう。それでも、相手への信頼とは別に生じる警戒心も理解している。だから私に、選ばせてくれている。
「うーん……カラオケ、かな。大声出してすっきりしたいかも」
「おっけ。んじゃ行こっか」
先ほどまでより少し軽くなった気持ちで、私は圭太と歩き出した。
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