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カラオケの個室で、私と圭太は乾杯した。それを一気に呷ると、くらりと目が回った。
「おいおい、飲み放題だからって最初から飛ばすなよ」
「だいじょーぶ、私吐いたことないから」
「そりゃお前、普段あんまり飲まないからだろ」
芸能関係者というのは飲み会が好きなものである。だが飲み会とはイコール営業の場でもあるので、はめを外すことがないよう、私はいつも量をセーブしている。
しかし今日はそんなことを気にする必要はない。ここには圭太しかいないし、明日のバイトは午後からだ。多少寝過ごしても問題ない。
早々に二杯目を頼んで、それに口をつけてから私は話を切り出した。
「私ねぇ、男の人、買っちゃった」
圭太が盛大にむせた。咳き込んでいるのを、きゃらきゃらと笑って眺める。
「おま、それ」
勢いで喋ろうとした圭太が、一度黙った。それから、低いトーンで返した。
「……馬鹿じゃねぇの」
「そうだね、馬鹿だったかも」
言って、くるくるとグラスをマドラーでかき混ぜた。
「そもそも、女優を目指したのが、馬鹿だったかなぁ」
「なんでだよ」
「私、人を好きになれないの。アセクシャル、ってやつかな」
これを人に言うのは初めてだった。フェミニストであるということは、私の生き方で考え方でもある。言うことに抵抗はなかった。
でも、アセクシャルであるということは。私が望んだことではない。愛したいのに、愛せない。そのことを、私自身が欠陥だと思っている。何より夢に影響を及ぼしている。
「恋愛したことがないのに、恋愛感情を演じるって……無謀だよね」
空笑いした私に、圭太は顔を顰めた。
「関係ないだろ。人殺したことなくたって、殺人鬼は演じられるじゃん」
「それは現実と乖離してるからでしょ。職業モノがその職の人からおかしく見えるようにさ。自分に近いものは解像度が高いから、違和感が目につくんだよ。恋愛なんて、世の中の大半の人が経験してるじゃん」
「でも職業モノだって、ちゃんと研究してやればそう見えるだろ。死ぬほど調べて、考察して演じてるんだよ」
圭太はぐっと酒を呷って、強めにテーブルにグラスを置いた。
「お前、役者だろ」
圭太の気迫に、私は鳥肌が立った。
「どんな人間も演じるんだろ。恋愛だけ別とかあるかよ。観察して、研究して、演じられるだろ」
「それは……私だって、恋愛ドラマとか、山ほど見たよ。だけどどうやっても、同じようにできなくて」
「同じって、どこまで?」
「どこ……って」
「表情は? 眉はどれだけ傾いてた? 瞬きは何回した? 相手の目を何秒見てた? 口角はどれだけ上がってた? 呼吸は? 一つの台詞で何回区切った? 相手の台詞の何秒後に返した? 台詞の頭の音は何だった? 終わりの音は? 相手との距離は何センチだった? 肩はどれだけ上がってた? 指先はどこにあった?」
立て板に水のごとく質問攻めにする圭太に、私は答えられなかった。
見ていたのに。ただのワンシーンでさえ、私はこの問いかけ全てに正確に答えられるだろうか。
「全部盗めよ。真似しろよ。恋愛してる人間の、反応を。現実の人間も観察して、映像の人間も観察して、いくらだってやってみせろよ。お前の本心である必要なんかない。本物と全く同じリアリティも要らない。俺たちは、最高に上手く嘘を吐いて魅せる人種だろ」
圭太の言葉に、私は自分が恥ずかしくなった。できるだけの努力をしたつもりでいた。やれるだけやって駄目だったのだ、と思っていた。
馬鹿馬鹿しい。やれることなど、いくらでもあるのに。人一人の人生では、足りないくらいに。
圭太の言うとおりだ。本物である必要はないのだ。まるで本物のように嘘を見せる。そして観客が望む姿を魅せる。それこそ、私が憧れた輝きだった。
失いかけた熱が、胸を焼くのを感じていた。
「私、まだ、諦めなくていいのかな」
「当たり前だろ。お前、上手いよ。刑事とかすげー迫力あるもん。刑事モノと医療モノはずっとサイクル回ってるから、バリキャリ女も絶対需要あるって」
「っはは、私も、そういうのやりたい」
「だから、やりたいものをやれるようになるまでは、何でもできるようにとにかく研究しとけよ。俺も体鍛えるばっかじゃなくて、これでも恋愛モノ研究してるんだからな」
「えぇ、うっそだー」
笑いながら、私は心がすっきりしていることに気づいた。
ああ、圭太は、いい男だ。
こういう人を、好きになりたかった。こんな人と恋人になれたら、きっと幸せになれるだろう。
けれど私は、圭太に恋人のように触れてほしいとは思わない。圭太が可愛い彼女を連れてきたら、何ら含むところなく純粋に祝福できる。
これほどに人として好意を持てるのに、恋愛になることはない。そのことに寂しさがないわけではない。
けれど、私には最高の友人がいる。
恋でなくとも、心は満たされる。人を想える。
私は、そういう私を肯定しよう。
恋を遠ざけるのではなく。無理にするのでもなく。
それでも、いつか変化が訪れたのなら。それもまた、自分だと受け入れたい。
自分が何者であったのかなど、死ぬまでわかるものではないのだから。
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