一話

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一話

買い物袋を下げてマンションのエントランスの集中ドアロックに、カバンからゴムのついたチェーンの先に付けた鍵を差し込み自動ドアを開ける。エレベーターで3階に行き、自分の部屋のドアを開いた。「ただいま…」と声を出しても誰もいない。そう、滝田孝介は単身赴任族だ。もうかれこれ20年は家族と一緒に暮らしていない。孝介は帰ったら真っ先にすることがある。それは仏壇のお水を変えることだ。7年前に母親が亡くなった。その時も単身赴任だった。この単身赴任先は孝介が幼い頃から中学校まで暮した土地に近く、両親もまだ住んでいた。就職してから埼玉、神奈川、千葉、名古屋とあちこち回り回って実家の近くに単身赴任で越してきたのだ。妻とは母親が亡くなった時、仏壇をどこに置くかでちょっとしたケンカになった。父親は愛人のところに入り浸りだったので、孝介としては自分の自宅、つまりローンで建てた、妻の実家のすぐ前の家に仏壇を置きたいと思っていたが、妻から猛反対された。「あなた普段いないじゃない。その間誰が仏壇のお世話するのよ!」そんなことを言われ、仕方なく単身赴任の部屋に小さな仏壇を置いている。本当は49日前に仏壇を買うらしいが、色々と一人でやることが多くて、仏壇を買ったのは母親が亡くなってから半年後のことだった。ちなみに妻の実家には立派な仏壇があるのだが。 お仏壇の水を変え、線香はあげずにチーンとカネだけ鳴らして合掌する。これが孝介の帰宅してからのルーチンだ。 その後はお風呂を沸かす。孝介は食事前に風呂に入る派だ。食事と一緒に酒も飲むから、食後だと億劫になるのだ。 風呂では一緒にヒゲも剃る。朝剃ると剃り残しが多いからだ。それでも剃り残しは多いのだが… 風呂から上がると食事の準備だ。 最近は体重増加を気にしてロカボなるものが多い。ご飯の代わりにキャベツの千切りなどに置き換えるものだ。これが意外といける。ある程度の満腹感もあるので気に入っている。酒は缶ビールに缶チューハイが鉄板だ。これをグビっとやるとホントに美味くて幸せだなぁなんて思う。 孝介は昭和40年10月生まれの57歳だ。大学を卒業してすぐに今の会社に就職した。ゼミも入ってなかった孝介だが、ちゃんとした就職活動もしないまま6月に今の会社から「話を聞いてみませんか?」と電話があったのでいそいそと出掛けた。当時の人事課長が面白い人で、スーツ姿の孝介に向かって「暑いから上着脱いじゃえよ!」と言われ面食らっていると「タバコ吸うか?」と差し出してきた。当時の日本の会社は社内どこでもタバコが吸えた。今では考えられないことだ。面白い会社だなぁってだけ思い帰る時に封筒を渡された。部屋に帰ってから封筒を開けると2000円が入っていた。どうも交通費らしい。他の会社では一銭もくれなかったのに…ちょっとだけイイ会社だなと孝介は思った。 その後しばらくしてまたその会社の人事の人から電話があった。今度は先輩の話を聞いてみませんか?この時も時間あったからいそいそと出掛けた。実際にその先輩の話は面白かった。仕事の話よりも会社に入るまでの過程が面白くて、話に引き込まれてしまった。そのあとは昼メシ食いに行こうとなり、ウナギをご馳走してくれた。そして交通費もくれた。性格が単純な孝介は「なんてイイ会社なんだ」と思うのは当然だった。 その後はウナギ攻勢やお酒攻勢でまんまと今の会社に入ったわけだが、当時の会社はCMでも有名で、店舗展開をどんどんしていたから、孝介が優秀ではなくて、元気で住所と名前と電話番号が言えれば誰でも入れたのだ。だから入社後はお客さんから兵隊になるのはすぐだった。
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