あの光る棒を振って。

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 あの雨の日、現場で僕がどう動いたか、動けたのか覚えていない。  だけど、去年の春に「交通警備研究会」のドアをノックするきっかけになった、大雨の夜のことは、今でもはっきりと思い出せた。  はじめての彼女に、別れを告げられた夜だ。  僕の誕生日、呼び出された店で待っていた彼女の隣には、知らない男が座っていた。  帰り道、自転車で、さした傘は土砂降りでちっとも役に立ってなかった。ずぶぬれになって、それでも構わなかった。  今思うと、悲劇に酔っ払ってたみたいでかなり恥ずかしい。  青信号を渡ったつもりだったのに、反射板をつけた白いレインコートに止められた。慌てて強く握ったブレーキレバーが雨で滑り、鈍い痛みが指先に走った。 「傘さし運転! 危ないから自転車おりて!」 「危ないのはそっちだろ!」  もうどこの痛みだか分からない苦しさで、怒鳴り返していた。  誰かに大声をあげるなんて、僕には本当にめったにないことで、それどころか初めてだったかもしれない。  白い雨の矢が降りそそぐなか、光る棒をもったそのレインコートは、ちょっとのけぞるようにして僕を見た。  歪んだレインハットのつばの下から覗く顔は、ふと息をのむほど整っている。  その顔がしかめつらになったかと思うと、 「待ってろ」  引き止めておきながら僕を置き去りに向こうへ走っていく。  サドルにまたがったまま足をついて、ぼんやり行く先を見ると、手に手に光る棒――あの頃はまだ、誘導棒という名前も知らなかった――を持った、レインコートの集団がいる。  こちらに向いた背中に、蛍光塗料かなにかでアルファベット4文字に「交通警備研究会」と書いてあるのが見えた。  駆け戻ってきた、少年だか少女だかわからない顔立ちの人物は、僕のななめにさしたビニル傘の中に頭を突っ込むと、手にしたタオルで僕の指をつかんだ。 「血が出てる」 「えっ」 「応急処置で絆創膏、巻いとくけど、帰ったらちゃんと消毒しろよ。それから……」  テキパキした口調とは違い、かなり不器用に絆創膏を巻いて、小脇に挟んでいた白い包みを押し付けてきた。  それは百円ショップで売っているような、ペラペラのレインコートだった。 「これ、やるから着て行け」 「えっ、えっ、でも……」 「傘さし運転は、ダメ! 絶対!」  立てた人差し指を目の前で振って、ニヤリと笑う。 「でも……」  そのとき、鋭く警笛が鳴った。  肩越しに見えていた、揃いのレインコートの集団がざわめいている。 「研究会! またおまえらは――!」  どこかから大きな声がする。 「おっと、タイムアップだ。じゃあ気をつけて行けよ。自転車乗るならカッパ着ろよ?」  手を振り走り去る背中に、慌てて叫んだ。 「返します! 返しにいきます!」 「そんなのいいって。プレゼントってことで」  笑いながらこたえるのが聞こえた。 「でも、お礼がしたいから!」  雨音にかき消されないように叫んだ僕は、ただもう一度逢いたい一心だったんだろう。  反対方向から、笛を鳴らし、赤い誘導棒を振りかざした男が歩いてきて、レインコートの集団は散り散りになり逃げているようだ。  笑い声は、最後に言った。 「だったら、もし……なら、研究会に来いよ――約束――」  楽しそうな笑い声と、雨音。  結局そのあと、僕は風邪で寝込んだ。  熱が下がってから、あのとき見た背中のアルファベットを検索した。  大学名の略称だった。大学の公式のホームページには交通……なんて研究会の名前はどこにもなかった。 (続)
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