あの光る棒を振って。

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 ドアの窓に貼られた紙には、「交通警備研究会」と几帳面な文字で書かれている。  何代前の先輩が書いたものだか、誰も知らないその貼り紙は、黄ばんだセロハンテープの上から何度も貼り直したあとがあった。  だいぶ見慣れたその紙を、ドアノブを握ったまま数秒のあいだぼんやり見ていたのは、中でやり合う声が廊下にもれ聞こえていたせいだ。 「……はよーっざいまーす」  できれば関わり合いになりたくないのに、ドアの前で回れ右するという選択肢を思いつかず、小声で挨拶して室内に滑り込む。  入ってすぐ、壁際の書棚にもたれかかっていた三年生の昭島さんと目があった。おう、と口だけ動かしてこたえてくれる。  苦笑いと視線で示されるまでもなく、声で分かっていた。  部室の奥でもめているのは、三年生の三輪さんと、僕と同じ一年の鈴原だ。  正確には、鈴原が一方的に三輪さんに絡んでいる。肘掛けの折れた回転椅子に、三輪さんは腕組みして座り、黙って鈴原の言い分を聞いていた。 「だから、一年生は誘導棒を振る資格はないってのがおかしいんですよ!」  そのことか、と僕は自分が怒鳴られているような気分で首をすくめる。  何度も聞かされたことのある、鈴原の持論だ。  いわく、交通誘導業務検定の1級さえ取ったら、一年だろうが誘導をやらせてもらえていいはずだ、今の、二年生以上でなければいけないという研究会のルールはおかしい――。  こんなとき、四年生の先輩がいれば、うまく鈴原のことを諭してくれるのだろうけど、もう就活で忙しい時期だ。研究会の活動にはほとんど参加していない。  もっと教えてほしいことがあったのに、と残念に思う先輩もいたけど、たいがいは、活動がSNSなどでバレたら内定にも影響するかもしれないといって、三年生の途中あたりから辞めていく人が多いとも聞いている。  僕たち「交通警備研究会」の活動は、ゲリラ交通誘導だ。  特に頼まれてもいない場所ーー交差点や横断歩道で、ゲリラ的に、交通誘導を行う。青信号になったら笛を吹いて信号待ちの人々の歩みを促す、ただの交通整理の場合もあるけど。  そこに走る車がある限り、歩行者がいる限り、ナンピトタリトモ僕たちの活動を止めることはできないのだ――新歓コンパで先輩たちがそんな気勢を上げていたはずだけど、就職活動はナンピトにカウントしないみたいだ。 「……あれ、いつからですか?」  ひそひそと昭島さんに聞いてみる。鈴原がひとしきり語り終えたあとなら、あとはそう長くは続かないはずだ。  昭島さんは、さあ? と服の上からでも筋肉の盛り上がりがわかる肩をすくめてみせた。  僕は足元に視線を落とした。  バイトしてようやく買った、マイ安全靴だ。みんなに見てもらいたかったのに、どうもそういう雰囲気ではない。  不意に昭島さんが顔を寄せてきて、息だけの囁き声で、 「いいじゃないか」  新しい安全靴に気付いてくれたらしい。  目をあげると、大きく微笑んでくれた。嬉しくて、笑い返そうとしたとき、怖ろしく冷たい鈴原の声に、ひやっと縮み上がってしまう。 「――こんっな旧態依然の活動やってるようじゃ……会の存続も危ういんじゃないですか?」  僕にむけて言われたのではなくても、心臓がバクバクいいだして、情けなく固まった。  他人事でも過敏に反応してしまう僕のことなど、当然鈴原はお構いなしに、いつも履いている安全靴の音を鳴らして部室を出ていこうとした。  それまで黙って見ていた昭島さんが、その肩をつかむ。 「……なんスか」 「落ち着け、鈴原。実力のある者が誘導棒を振るべきだっていう、おまえの意見も俺たちはちゃんと分かってる。でもな、いや、まあ聞けよ。覚えてるか? この間の二丁目三叉路での活動のときに……」 「昭島、よせ」  さっきまで鈴原には一言も反論せず聞いていた三輪さんが、鋭く止めた。  昭島さんが舌打ちしそうな顔で三輪さんを振り返る。三輪さんは組んでいた脚をほどき、腰も浮かしかけていた。 「その件なら、俺が時期を見てちゃんと話す」 「しかしなあ……」 「それとこれとは、別の話だ」 「別? 別かねえ……」  頭越しにかわされるやりとりに、鈴原が顔を歪めた。  あまりの形相に、ぼんやり見ていた僕の口から、情けなくも「ヒッ」と声が出る。  それでようやくドアの前に突っ立っている僕を押しのけて出ていくところだったと気付いたらしい。鈴原が僕へと一歩詰め寄った。 「おまえもそう思うだろ!? 同じだけ厳しい練習して、資格も同じモン持ってるなら、あとは実力主義じゃねえか!」 「え……っと」  争い事は嫌いだ。  どうにかこの場を穏便に逃れたくて、部室の中に視線をさまよわせる。ふと、椅子から立ち上がった三輪さんの、細いのにぶれない体幹を感じさせる立ち姿、それから静かな眼差しに出会った。  僕がこれから何を言っても、黙って受け止める用意がある、そんな深い湖の水面のような目だ。  あのときの三輪さんも、こんなきれいな目で僕を見てくれていたのだろうか。白く煙るほどの雨のなかで……。  僕はごくりとつばを飲んでから、鈴原に向き直った。 「……厳しい練習に耐えてきたのは、そりゃあ同じだけど……でも、だったら、上級生は僕たちよりも長く、その練習に耐えてきたんだよね?」 「はあ?」 「だから……だったら、少なくともその分は、僕たち、先輩たちにはどうしようもなく遅れをとってるっていうか、いや、もちろん練習とか、努力でそれを補うっていうのもだいじだと思うけど……敬意っていうのかな……そういうのを持つのも、交通警備のチームプレイとして、大切なことなんじゃないかって……ああ、ごめん、そういう話じゃなかった? 僕、的外れなこと言ってたらごめん……」  つっかえつっかえ言っている僕に、昭島さんが大きく笑いかけ、その表情のまま三輪さんにむかって両腕を広げてみせている。  鋭く舌打ちして、鈴原は部室を出ていった。  少し間を置いてから、コーヒー買ってくる、と言いながら三輪さんが出ていく。僕はぼんやりと、鈴原と三輪さんは性格は真逆なのに背格好は似てるんだな、なんてことを思った。  昭島さんと二人だけになって、さっき三輪さんが止めた話のことを聞いてみた。この間の二丁目三叉路といえば、僕にとっては初めての雨の中の活動で、緊張で何が何だったかほとんど覚えていないのだ。 「ああ……まあ、三輪に止められたのは、鈴原に話すことだけ、かなあ……」  弱ったように昭島さんは頬をかいていたが、結局は話してくれた。  活動前に、誘導棒やチョッキの電池切れチェックをするのは一年生の役割になっている。誘導棒は、千円程度の安いもののほか、上級生が卒業したとき置いていった、私物の誘導棒もある。型の違う棒を、一本一本チェックする。  あのとき確か、チェック済みは別の箱に入れるよう上級生に指導されたはずだけど、鈴原と僕は、箱から取り出した棒のライトをつけて確認しては、取り出した箱に戻していた。鈴原が「傷や汚れ具合で、一度見たものは分かる」と、だからチェックしたものを別の箱を用意して分けるのは非効率だと言うので、僕も賛成したのだ。  結果、電池切れがあったらしい。  三輪さんが二重チェックをしていて気付いたから、現場では事なきを得た。  昭島さんはすぐに一年生の僕たちを叱るつもりだったそうだが、言ったとおりに作業しているか見ていなかった側にも落ち度があるからと、三輪さんが止めた。  三輪さんはきっと、鈴原の性格を考えて、告げるタイミングを考えているのだろう。自分の交通誘導スキルに絶対の自信を持っている鈴原に、初歩的なミスを指摘するのは、こじれる可能性しか感じない。  僕は作業ミスにひたすら恐縮した。  昭島さんが大きく厚みのある手で頭をポンポンしてくれる。  あの雨の日、現場で僕がどう動いたか、動けたのか覚えていない。  だけど、「交通警備研究会」のドアをノックするきっかけになった、あの大雨の夜のことは、今でもはっきりと思い出せた。  はじめての彼女に、別れを告げられた夜だ。  僕の誕生日、呼び出された店で待っていた彼女の隣には、知らない男が座っていた。  帰り道、自転車で、さした傘は土砂降りでちっとも役に立ってなかった。ずぶぬれになって、それでも構わなかった。  今思うと、悲劇に酔っ払ってたみたいで、ちょっと恥ずかしい。  青信号を渡ったつもりだったのに、反射板をつけた白いレインコートに止められた。慌てて強く握ったブレーキレバーが雨で滑り、鈍い痛みが指先に走った。 「傘さし運転! 危ないから自転車おりて!」 「危ないのはそっちだろ!」  もうどこの痛みだか分からない苦しさで、怒鳴り返していた。  誰かに大声をあげるなんて、僕には本当にめったにないことで、それどころか初めてだったかもしれない。  白い雨の矢が降りそそぐなか、光る棒をもったそのレインコートは、ちょっとのけぞるようにして僕を見た。  歪んだレインハットのつばの下から覗く顔は、ふと息をのむほど整っている。  その顔がしかめつらになったかと思うと、 「待ってろ」  引き止めておきながら僕を置き去りに向こうへ走っていく。  サドルにまたがったまま足をついて、ぼんやり行く先を見ると、手に手に光る棒――あの頃はまだ、誘導棒という名前も知らなかった――を持った、レインコートの集団がいる。  こちらに向いた背中に、蛍光塗料かなにかでアルファベット4文字に「交通警備研究会」と書いてあるのが見えた。  駆け戻ってきた、少年だか少女だかわからない顔立ちの人物は、僕のななめにさしたビニル傘の中に頭を突っ込むと、手にしたタオルで僕の指をつかんだ。 「血が出てる」 「えっ」 「応急処置で絆創膏、巻いとくけど、帰ったらちゃんと消毒しろよ。それから……」  テキパキした口調とは違い、かなり不器用に絆創膏を巻いて、小脇に挟んでいた白い包みを押し付けてきた。  それは百円ショップで売っているような、ペラペラのレインコートだった。 「これ、やるから着て行け」 「えっ、えっ、でも……」 「傘さし運転は、ダメ! 絶対!」  立てた人差し指を目の前で振って、ニヤリと笑う。 「でも……」  そのとき、鋭く警笛が鳴った。  肩越しに見えていた、揃いのレインコートの集団がざわめいている。 「研究会! またおまえらは――!」  どこかから大きな声がする。 「おっと、タイムアップだ。じゃあ気をつけて行けよ。自転車乗るならカッパ着ろよ?」  手を振り走り去る背中に、慌てて叫んだ。 「返します! 返しにいきます!」 「そんなのいいって。プレゼントってことで」  笑いながらこたえるのが聞こえた。 「でも、お礼がしたいから!」  雨音にかき消されないように叫んだ僕は、ただもう一度逢いたい一心だったんだろう。  反対方向から、笛を鳴らし、赤い誘導棒を振りかざした男が歩いてきて、レインコートの集団は散り散りになり逃げているようだ。  笑い声は、最後に言った。 「だったら、もし……なら、研究会に来いよ――約束――」  楽しそうな笑い声と、雨音。  結局そのあと、僕は風邪で寝込んだ。  熱が下がってから、あのとき見た背中のアルファベットを検索した。  大学名の略称だった。大学の公式のホームページには交通……なんて研究会の名前はどこにもなかった。 (続)
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