6 夢に見た光景

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6 夢に見た光景

対面式のキッチンから漂ってくるのは、甘く香ばしいココアの香りと弟の鼻歌だ。  意識の何割かをそれへ向ける侑の膝の上で、読みかけの雑誌が落ちそうに傾いていた。 「ゆーう。ソファで寝たら押し倒すよ?」 「わぁっ、ごめっ、寝てないっ」 「あーはいはい、寝ている奴は皆それ言うね」  マグカップをテーブルに置いて雑誌を畳んだ香の手に冗談ではなく頬を撫でられては、不肖の兄とて睡魔に身を委ねてなどいられない。自分とは異なる体温に一瞬で正気を取り戻させられて、侑は倒れかけた身体を起こし、見下ろしてくる香と視線を絡めた。 「これ飲んで、一旦ちゃんと目を覚まして。風呂に入って歯を磨いてベッドで寝て」  突き出されたカップを両手で包んで何げなく壁の時計を見上げた侑の目に、20時半という時刻が映る。 「こんな早くにベッドへ行っても眠れないよ」 「たった今! ソファで寝てた人は誰?」 「……俺だけど」  ぼそぼそと反論を口にしながら、そういえば土師の暮らしぶりを聞いた事がなかったと、侑は不意に気がついた。  桐原潤一郎の記憶を保持しているとはいえ、土師潤一郎自身は25年前に現世の夫婦の間に生まれた、ごく普通の赤子に違いない。  どんな家族を持ち、どんなふうに育ったのかと一度も尋ねずにいたのは前世という言葉に振り回され、混乱の中で右往左往していたせいだ。ほんの少し立ち止まる余裕ができた途端に、土師の背景が気になり始めた。 「侑、好きな人ができたよね」  どさ、と隣に腰を下ろしながら、香が自分のココアに口をつけた。自作のそれに満足して小さく笑み、テレビに映る天気予報を観るとはなしに眺める姿はとても自然で、反射で振り返った侑には一瞬何を言われたのかが判らぬほどだ。 「今までとは違うジャンルの本を読み始めたり、熱を出すほど何かを深く考えたり……誰かのことが気になって仕方がなかったり?」 「なぜ、そんなふうに思うの」  手の中のカップを落としそうになって慌ててテーブルに置き、侑が信じられぬ思いで香を見る。5つ下の弟はしっかり者だが、侑の気持ちを見抜いて指摘してきたことなど一度もなかった。いつでも無邪気で明るいばかりの弟が今はどこか切なげな色を含んだりまなざしで自分を見つめてくるのが不思議で、落ち着かない気分に捉われる。弟が成長したのだと気づくには、侑もまだ若かった。 「だって侑、俺に訊いたじゃん、カノジョはいるのかって。それ、自分に好きな相手ができた男が決まって言う台詞」 「……は? え? そういうもの?」 「侑はいつでも誰に対しても同じ大きさの愛情を持っているように、俺には見えてた。誰とも争わない代わりに、大好きな人もいない。平等は素晴らしいことだけど、侑はいつも少し寂しそうだった」  きっぱりと言い切られて反論できぬ侑に、香はさらなる言葉を重ねた。 「だから侑が恋をするのはいいことなんだと思うし、俺は応援したい」 「……香」 「チャラ男的助言なら、いつでもするから」 「あぁ…うん」  それはちょっと考えものだけど、と喉元まで出かかった声を飲み込んで、侑が弟のド金髪に感謝を込めて掌を置く。 「ありがとう、香」 「ぅはははっ、任せろっ」  細い両手に髪をかき混ぜられて笑う香は、大型犬みたい、と兄が密かに思惟したことなど、微塵も知らない。
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