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1 夢は夢でも……
真冬の早朝。
霜の降りた橋の欄干に両手を載せて、彼はひとり佇み、滔々とゆく川の流れを聞いているらしかった。
らしかった、と思うのは、見つめる侑と立ち尽くす彼の間に無限としか表現しようのない距離が横たわっているからだ。
ようよう昇り始めた朝陽が紅葉を終えて久しい山々を控えめな紅に染め、小さな田舎町を囲んだ稜線から夜の色を払拭してゆくが、川面へ落ちたままの彼の目にその鮮やかさは映らない。
『……ユウ……』
朝靄へと放たれた白い息が刹那、黒い髪に触れて涙のように煌めいた。形のよい唇が発したそれは、近しい誰かの名だろうか。
あどけなさの残る面がそれでも涼しげに整って、侑の目を引きつける。
白いワイシャツ、黒いパンツの清楚な装いは高校の制服のようだが、襟に施された校章は距離に阻まれ、鮮明には見て取れない。
『……どこに……いる……会いた……い』
映画の一場面の如きその光景に酷い寂寞を誘発されて、侑は泣きながら飛び起きる。
『彼』にも『ユウ』にも心当たりは皆無のはずなのに、どこへとも判らぬ回帰願望に心を掴まれ、強烈な喪失感と息苦しさに苛まれる。
――そんな夢を、夜ごと見ている。
※
「あ。ごめん、侑」
隣を歩く弟が突然そう言ったのは、揃って改札を出た直後。侑が空の暗さに重く息を吐き出して、ネクタイを緩めた瞬間だった。
「カラオケ。タカシ達に誘われちゃった」
いい? と顔の高さに上げられた弟の手には、メッセージが届いたばかりの携帯端末が握られている。
侑よりも若干背が高く、しっかりした性格をしているとはいえ弟はまだ大学二年生。友人との遊びが楽しくて仕方がない年頃だ……が。
「……あのね、香」
兄が呆れ気味に言うのも無理はない。なぜならば、ふたりが纏っているものは、寸分の隙もないフォーマルウェアだからだ。
「金髪には黒服こそが映えるって言うし?」
「……あぁ、そう」
金髪と呼ぶには明るすぎるド金髪を指さして、説得力があるのかないのか判らぬことを香が言う。
いいよ、と応じることしかできぬ己の無力を嫌というほど実感しつつ、侑は駆けだしてゆく弟の背に小さく手を振った。
春の夕暮れは早い。
ロータリーを廻り、各方面へと向かうバス停をいくつか通り過ぎて交差点を渡った先、閑静な住宅街の一角に兄弟の住むアパートはひっそりと建っている。徒歩十五分ほどの道程に、障害物はない――はずだった。
「っ!」
ソレは、予期せぬタイミングで来た。
右肩に衝撃を受けると同時に足下から上がった、かしゃっ、という音が、痛みよりも強く侑の意識に突き刺さった。
「……あ」
小さく声を発しながら緩慢な動作で携帯端末を広い上げる若い男が目の前にいたから、彼とぶつかったのだろうと、ようやく侑も理解する。
「も、申し訳ございません。大丈夫ですか、えと、お身体? スマホ? ……お身体?」
長身の男に切れ長の双眸で睨まれて、本人と携帯のどちらを優先的に心配すべきかと侑は数秒間迷った。
「修理か機種変更、いえ、弁償? どれでも、俺に出来ることでしたら何でも」
無駄に言葉を重ねてしまうのはたぶん、男の風貌のせいだ。
侑よりも頭ひとつ分ほど背が高く、夜空を思わせる黒髪と精悍な顔立ちをしている。広い肩に掛けた黒いロングコートの下は仕立てのよいスーツ、艶やかに磨かれた革靴。
何よりも印象的なのは漆黒の瞳から放たれる、鋭利な眼光だ。
そのスジの人、と勝手に思い込み、侑は震えた。
「スマホは無事だ。修理も弁償も必要ない」
光る画面に指を走らせて動作を確認していた男が、いつの間にか侑を見下ろしている。
逸らしていた視線をうっかり上げてしまった侑の目に、その真摯な表情が鮮やかに映り込んだ。
あれ、この目…と、見知った誰かを思い出しかけたのはほんの一瞬。脳裏をよぎった影は形を成さずに霧散してしまった。
「…あぁ。それはよかっ……ひゃっ」
よかった、と言いかけた言葉が刹那、悲鳴に変わった。顔の前へ迫った男の大きな手に驚いて、侑は咄嗟に目を伏せる。
殴られる、と思惟する間もなく、ゆらりと上がった男の指が触れたのは、侑の左目の下にある小さな黒子だ。ゴミが付いているとでも思われたかと恐る恐る目蓋を上げれば、ゆっくりと少しだけ離れていった指の先に先程よりも真率な表情を浮かべた男の顔があった。
「おまえ、利き手はどちらだ」
「は、え? 手?」
男の長い指が目元から移動し、今度は前髪をかき上げられる。
不格好に上擦る声をどうにもできず、侑はただ男を見上げた。
「どちらだ」
「ひっ、左です……って、一体何ですか」
答えながらも、男の理知的に整った顔が歪むのを侑は見逃せなかった。なぜなら、侑の額には、一直線に走る傷痕があるからだ。
縫合痕ではなく自然に塞がったらしきそれは大きくはないが、見る者を不快にせずにいられぬ程度にははっきりとしたものだ。
「この傷の原因は何だ」
眉間に縦縞を刻んだまま発される低音は、地の底から響いてくるかと思うほどに冷たい。
思わず息を飲み込む侑の、唇が怯えて震えた。
「う、生まれつきです」
「何だと?」
「両親にはそう言われました。生後間もなく撮られた写真にも生々しい傷ではなくこの状態で映っていましたし、きっと母の胎内で身体が形成される段階で傷痕のようになったのだろうとのことです」
「……」
「天パや二重瞼などと同じようなものと思えば、判りやすいのでは」
無言で額を凝視され、居心地悪く重ねた言葉に、やがて男は、そうか、と呟いた。
が、納得したか否かは謎だ。
「誰かに呼ばれる夢を見たことはあるか」
「え」
一瞬耳を疑って、侑が男の目を見返した。
そこに見え隠れするのは先程と同じ既視感だが、一度見たらそう簡単には忘れられそうもないほどの男前と、いつどこで会ったのかは一向に思い出すことができない。
「しかも生まれてこの方、無数に、だ」
「どうして、そんなことを」
訊くのかと言いかけ、侑は立ち竦んだ。
見下ろしてくる男の声音が余りにも必死で抑え切れぬ何かを内包しているように聞こえたせいだ。
「なぜ、泣く?」
続いて投げられた問いの突拍子のなさに、侑の心中に渦巻く不可解な感覚は吹き飛ばされた。
「え? 泣く? って、俺ですか」
「他に誰がいる」
慌てて顔を擦った手の甲へ触れたのは、確かに生温かい涙で間違ってはいない。無自覚のそれを不思議に思いつつ、侑は男へ向かって頭を下げた。
「すみませんっ。法事帰りで、そのっ……」
単純な事実をひとつ口にする侑の細い身体を覆う黒を見れば、それが偽りでないことは誰の目にも明らかだ。あぁ、と声を落とし、男も今度こそ納得して頷きかけた。
「とはいえ七回忌だし、それほど悲しいかと聞かれればそうでもないというか……あっ」
余計なことを言ったと気づき、侑は慌てて言葉を止めた。
実際のところ、一〇一歳まで人生を謳歌して大往生を遂げた曾祖父の七回忌に落涙する者はなく、両親も弟も親戚筋の者たちも、笑い顔で思い出話に花を咲かせていた。その輪の中に座る侑も、彼らと同様の笑みを浮かべて穏やかにその時間の終わりを待っていればよいはずだった。ひとりの親族からの、ひと言が放たれなければ。
『侑君だけ、葬儀のときも泣かなかったね』
それは決して恨み言や侑を責める言葉ではなく、過去の出来事のひとつとして発されたのだろうことは想像に難くない。侑はおじいちゃん子だったから悲しみが深すぎて泣けなかったのだろうと母が侑を慰め、誰もが頷いてその場は丸く収まった。
それでもこうして帰路にまで引き摺ってしまう程度には侑の心は乱されている。
叱られたことは殆どなく、愛されていたのだという実感はある。が、訃報を聞いた瞬間も告別式の間もその後のどんな場面でも、曾祖父のために涙を流すことは一度もないまま侑は今日まで過ごしてきた。
身近な故人に対し、悲しみではなく労いに近い感情を抱くのが精一杯の自分は人間として何かが欠落しているのではないかと不安に思うこともときにはあったし、己が本当に居るべき場所はこの家族とは別のどこかではないのかと疑ったこともあるが、それこそ眼前のこの男には無関係極まりない話である。
落ちついて考えればこの涙の原因は曾祖父の死や親族の言葉のせいではなく、目前の男の醸す雰囲気にあるように感じられてならない。実際、例の夢から醒めた直後の悲哀と寂寞に侑の心は千々に乱れていた。
「名は」
侑の胸中に忖度することなく、不穏な問いは続いた。
四月上旬のすっかり暗くなった空の下、駅前の雑踏の中で自分は一体何に捕まったのだろうと、暢気な性格を自覚している侑にもそろそろ警戒心が湧き始める。
「け、携帯が無事だったのなら、俺はこれで」
「……ユウ」
手相を見せろ、生年月日を教えろと言われぬうちに立ち去るべきだと決意した刹那、新たに発された声に後退しかけていた踵が震えて止まった。
「えっ」
こんなふうに、自分の名を呼ぶ誰かの声を、どこかで聞いた憶えがある。家族や友人たちのそれとは違う、慈愛と悲哀を含んで時空を超えてくる切実な声を。
「……っ」
一瞬で背を突き抜けた寒気は、本能的な恐怖だ。何を思う間もなく、侑は前髪に触れている男の手を振り払った。自身の纏う喪服よりも暗い、男のコートが視界いっぱいに広がって、視力を奪われるような錯覚が起こった。
「私の連れが、何か無礼を?」
突如、ふたりの間へ場にそぐわぬ冷徹な一言が割り込んだ。
街灯に煌めくド金髪を揺らし、どこからともなく現れた香が、さりげなく侑を背に庇う。どうした、と視線で問いながらも、兄が面倒ごとに巻き込まれているのだとは、既に理解しているらしかった。
「俺がこの人にぶつかって、スマホを落としてしまって、けど、それは無事で、だから」
「でしたら問題はありませんね。失礼」
侑に全てを言わせずに、一瞬だけ男を睨めつけた香が兄の細い肩を抱いて有無を言わせぬ強さで踵を返す。
ホスト? 執事? と侑が己に対して思惟したのも知らぬげに、弟は見事に兄を窮地から救い出していた。
「香、カラオケは」
「店の前で振り返ったら、侑があいつに絡まれているのが見えたから。今日はもう帰ろ?」
五歳差の弟を頼もしく思い、自身を情けなく感じて、強引に手を引かれるままに足を踏み出しながら、侑は唖然とこちらを見送る男へ小さく一礼をした。
男の携帯端末に不具合が生じなくてよかったと、やはりどこか暢気に思惟しつつ。
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