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この物語はフィクションです。
実在の人物、場所――。
「関係ありません、よね……」
5限目の図書室には利用する生徒の姿もなく、侑の虚しい独り言を聞く者はいない。
手にしていた最後の1冊を本と本の隙間に収め、侑は整頓を終えたばかりの書棚へ向かって溜め息を落とした。
剣と魔法の冒険ファンタジーの最後にさえそんな味気ない一文が堂々と記され、子どもの夢を壊す時代だ。大の大人の土師が前世という単語を寸分の躊躇もなく口にする意図が、微塵も理解できない。仮に侑を口説きたいのだとしても、25歳の男が選ぶべき台詞は他にいくらでもあるはずだ。
と思惟していたら、貸し出しカウンターに近い入口の引き戸が廊下側から開けられた。
室内に満ちる静寂を揺らして現れたのは、生徒ではない。
「……静かだな」
周囲をぐるりと見回し、最後に侑へと視線を定めてぽつりと声を落としたのは、長身の男だ。
「この時間は、俺しかいません。土師先生は空き時間ですか」
「あぁ」
「転生モノを何冊か読んでみたのですが」
長い足で悠然と歩み寄ってきた土師の目が自分の背後の棚へ移ったことを知り、侑は呆れ気味に切り出した。
「前世は平安貴族や戦国武将、中世の騎士だったという話ばかりじゃないですか。たった2年でごく普通の高校生だった人間が転生なんて、ありますか」
「あるだろう。現に俺がここにいる。物語の方は、派手な過去のある人物でなければ読者の気を引けないからな」
前世の記憶の有無にかかわらず、この世の人間の何割かは誰かの転生した姿なのだろうと、土師は常々思っていた。
「あなたは俺に、何を求めているのですか」
閲覧机に腰を掛けて足を組んだ土師へ問う侑の声には、無意識に小さな棘が混ざった。
「……何を?」
投げられた言葉を舌に載せた土師の双眸が、訝るように細められる。
「あぁ。言われてみれば、そうだな」
顎に指を添えながら、土師は暫し広い室内に目線を彷徨わせた。
土師同様、鈴川侑も桐野侑の記憶を持ち、再会と同時に想いを通わせられるのだろうと漠然と想像していた。今生でこそ恋を叶えられると信じて疑わなかったが、それは儚い夢だと知った。桐野侑を、桐原潤一郎を忘れてしまった鈴川侑に、今さら望むことなどあるのだろうか。だが、そんな戯れ言に目の前の鈴川侑が付き合ってくれるとは信じ難い。
思いがけぬ問いに眉を顰める土師を、侑は正面から冷静に凝視した。
「俺に平然とキスができるくらいだから、前世では恋仲だったのだろうと思います。けれど、今の俺はあなたの恋人ではないし、代わりになる気もありません」
「鈴川侑本人を想う相手でなければ嫌だという意味か。まぁ、それは当然だな」
飄々と言ってのけ、足を組み替えた土師が漆黒の瞳に侑を映し出す。その軽い口調とは裏腹の真摯なまなざしに、侑がなぜか言い知れぬ苛立ちを覚えて声を荒げた。
「よく見てください! 俺の容姿は桐野侑より劣っていませんか。性格だって25年も生きている分、18で亡くなった彼よりよほどひねくれているでしょう? もしも今、あなたが事故などで前世どころか土師潤一郎としての記憶も失ったとして、まっさらな状態で俺に出会ったら、それでも俺を好きだと言えますか」
「!」
ぴくりと、土師が肩を揺らした。精悍な面に浮かんでくるのは、侑には理解できぬ自嘲の笑みだ。長身がゆっくりと机を離れ、窓辺へと歩み寄ってゆく。見守る侑の眼前で、大きな右手が寸分の迷いさえ見せることなく南向きの窓を開け放った。
「確かにそうだな。俺がおまえに何を求めているのか、無の状態で出会っても愛することができるのか、試してみるのも面白い」
「え、嘘っ……土師っ……!」
正気かと問う間もない。
土師の上履き代わりのスニーカーがあっさりと窓枠を越えようとしたその瞬間、侑は何を考えるよりも先に床を蹴って駆け出した。
図書室は3階だ。運が悪ければ記憶どころか命さえ失いかねない高さである。自分のつまらぬ挑発でひとりの人間がこの世から消えることなど、受け入れられるはずがない。書籍より重いものを持たぬ司書の両腕が、午後の陽射しの中へ飛び出そうとする白いワイシャツの肩を無造作に掴んで引き寄せた。
「莫迦ですかっ!」
渾身の力で自身よりも大柄な男を室内へと引き倒し、声を限りに叫んだことに、前世も何も関わりがない。ただ、目の前で土師が死ぬかもしれないという恐怖に駆られ、救えたことに満足して、侑は彼を怒鳴りつけた。重い音を立てて床へ叩きつけた身体の心配も通り越し、栗色の双眸には怒りと安堵の混ざった涙が滲んできた。
「いい年をした大人が、何を考えているんですか。ここは神聖な学び舎ですよ! 生徒への影響や学園への迷惑や、俺だって……っ」
「俺だって?」
「え、あ、それは」
追究され、侑は咄嗟に左手で口元を覆った。白い頬が見る間に赤みを帯びる。言いかけた言葉と気持ちを見失って、空いた右手があたふたと前髪に触れた。
土師の命が失われることに対し、強烈な恐怖を感じた理由を侑は探した。
土師は直前まで目の前に存在し、言葉を交わしていた相手だ。手を伸ばせば触れられる場所に立ち、目を合わせ、かみ合わないとはいえ会話ができる。自分自身の人生に関与している人間が、一瞬で2度とは会えぬどこかへと消えてしまうことは怖い。圧倒的で本能的な、抗うことのできぬ恐怖だ。
身内の誰を亡くしても心を乱さずに、粛々と頭(こうべ)を垂れて見送ってきた自分が唯一、土師にだけはそうすることができない気がした。失いたくないという強い思いに駆られて窓枠を越えようとする土師の背に縋りつき、後はもう無我夢中だった。
「侑?」
ユウ、と。
凍えそうな大気の底で恋人を希求していた少年の、切実な声と瞳が胸をよぎる。見つめてくる土師を見つめ返し、今ならばその苦しさが自分にも判ると気づいた侑の唇がわなないた。
「俺が管理責任者を務める図書室からあなたが飛び降りたら、俺はクビになるかもしれませんから」
抑揚のない言い訳には、かわいげの欠片もない。
「……ふっ。はははっ」
投げ出され、座り込んだままの姿勢でいた土師の唇から、軽やかな笑声(しょうせい)が零れた。
「今更ですが、乱暴を働いてすみませんでした。痛かったですよね? 立てますか」
動揺に誘われた侑の涙とは正反対に笑い泣きの涙を指先で拭って、土師が侑の差し出した利き手を掴んで立ち上がる。がっしりと握り合った掌の温かさに安堵した侑の吐息を、土師は聞き逃さない。
「非力かと思えば、意外と……」
「何を笑っているんですか。非常識なっ」
「侑に心配されるのは、気分がいい」
「おかしなことを言わないでください。誰だって、窓から飛び降りようとする人を見たら止めるでしょう」
なめらかな頬を深紅に染め、平素は見せぬ混乱を表している目の前の侑が、確かに過去の侑とは別人格であると、土師は知る。
「……面白いな、おまえ」
「はぁっ? その呼び方は不快だと何度言ったら……っ」
ぽん、と頭に手を置かれ、侑は目を見開いた。適度な重みと温かさに生命を感じ、怒鳴りかけた声が喜びに飲み込まれる。
「どうでもいいことを訊くが」
かわいいと言いかけ、面白いと訂正したことを侑に覚られずに済んだと内心で安堵し、土師が咳払いをひとつ落とした。
「初対面の日に突然現れて侑を引き摺っていった、ボディガードか執事気取りのド金髪は何者だ」
「え? あぁ。弟です」
執事という耳慣れぬ単語に首を傾げた侑が、しかしド金髪の知人はひとりしかいないと、すぐに気づいて苦笑した。
「……弟」
「見た目はアレですけど、とても面倒見が良くて優しくて、いい子なんです」
「随分と仲が良さそうに見えたが、男同士だと何かと衝突する場面もあるのではないか」
「余所の兄弟のことは知りませんが。5つも離れているので、香はただかわいいばかりで」
返される侑の声は静穏だ。
世話を焼かれているのかと訝り、兄としてそれを良しとしているのかと疑いつつも、温かい家族の情愛に触れた土師が、鈴川侑という人間の端緒を掴んだことに、ふと気づく。
27年前に夭逝した桐野侑は鈴川侑へと生まれ変わり、大切に育まれてきたのだと、ようやく頭ではなく心で感じ取れた。
土師本人とて現世に家族を持っている。
彼らは息子に前世の記憶があることは勿論知らず、かつての恋人を探しているなどとは想像したこともないのだろうが、愛し愛されて日々を重ねてきたことに嘘はない。
桐原潤一郎としては高校時代の遥か先まで桐野侑とともに在りたかったが、土師潤一郎として鈴川侑を知ってしまった今となっては過去にばかり固執し続けていては大切なことを見落とすのではないかと、危ぶむ気持ちが土師に芽生えた。
「……25年」
桐野侑が病を得ずに現存していたら、鈴川侑という青年がこの世に誕生することはなかった。桐原潤一郎と土師潤一郎に於いても、同様だ。
これは人知と輪廻の理(ことわり)を超越した不可思議な現象に翻弄された、運命の『再会』に他ならない。
「愛しいな」
「は……わっ」
土師さん、と綴ろうとしたのであろう声を摘み取るように、土師は侑の栗色の髪をかき回した。
「どちらの侑も、かけがえのない侑だ」
「土師さん?」
「聞き流しておけ、鈴川侑」
「え……」
意図的に、土師は侑を現世の名で呼んだ。
おまえはそのままでいいのだと、言外に滲ませた気持ちを侑が感じ取るか否かはどちらでもよかった。ふたりの侑の間で揺れた複雑な感情に明確な答えを見出せぬまま、静かに息を吐く。
ただ、室内を占める古い紙の匂いのように、鈴川侑へ求めるものが中空にうっすらと見えたような気はした。
そんな土師の漆黒の瞳を、侑が見上げる。
桐野侑を知りたい、知るべきだと感じた理由を説明することは難しいが、全てを否定するのはそれからでも遅くはないと思えていた。
「先日、俺が前世など証明できないと言ったのを憶えていますか」
「あぁ、言ったな」
屋上で昼食をともにしようとした日の会話を、ふたりはまだ忘れてはいなかった。忘却してしまえるほどの時間は経過しておらず、その上、侑生にとっては否定したい内容で、土師に至っては侑に落胆したのが原因だった。
「俺にも判るくらいに確実な、桐野侑が存在していたという証(あかし)をお持ちではありませんか。俺に、彼のことを教えてください」
「どうした、急に」
「あなたが何かを吹っ切ったような表情をしているから、俺も自分の気持ちを整理したくて」
「そんなふうに見えるのか、俺が」
「……えぇ」
無自覚だったのかと訝る侑の眼前で、片手で口元を覆った土師は瞠目している。その濁りのない切れ長の双眸に、侑の心は否応なく引き寄せられた。
「桐野侑の存在証明なら、これ以上はないと言えるほど確かなものがある」
「何です?」
「週末を空けておけ」
すれ違いざま侑の耳元に小さく告げ、土師は図書室を後にした。
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