6 夢に見た光景

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 持っていろと命じられたものは白い紙に包まれた仏花と、線香やライターの入った袋だった。侑にそれらを抱かせた土師は両手にそれぞれ箒と塵取り、水の入った桶を持っている。  事務所を出てゆく土師を追って屋内から外へと踏み出し、陽射しの眩しさに侑は思わず片目を閉じた。  桐野侑の墓へ連れて行ってやる、と土師が行き先を明かしたのは土曜の朝、学園の前で待ち合わせた侑を助手席へ乗せた直後だった。  実のところ、桐野侑と桐原潤一郎の両親はまだ存命中だ。土師も数年前に一度だけ、遠くから桐原家の様子を覗ったことがある。  とはいえ、もう二度とかかわることを許されぬ人たちだ。鈴川侑にそれを見せるのは酷だろうと判断し、土師は墓苑へ行くことを選んだ。実際にそれを目にすれば、多少なりとも桐野侑という人物を身近に感じることができるかもしれないと思っての選択だ。  少なくとも、実在していた人間なのだとは、証明できる。  思いつきで行けるほど近くはないために学園が休みになる土曜を待ったと話す土師の運転で訪れたのは、山あいの閑静な町だった。  山を切り開いて造られた墓苑は、まっすぐに上ってゆく道の両側に墓石がずらりと並べられている。斜面に行儀よく整列した様々な種類のそれに圧倒されそうになりながら、侑は前をゆく土師に続いた。  爽やかな風が吹き、緑が揺れる。  舗装された斜面を中腹辺りまで上ったふたりは右側の通路へ入り、少々行った先に現れた御影石の墓石の前に、促されるまま侑は立った。 「……ここ、が」  桐野家と刻まれた石は古そうだ。側面に彫られた代々の故人の名が長年の風雨に薄れかけている。昭和中期から後期、平成初期と続く没年月日の中、最も新しいものは27年前だ。侑の目がその文字を捉え、止まった。  読み方の判らぬ長い戒名に続いて記されている俗名は、侑。享年18歳。 「この人が、桐野侑」  声に出してその名を呟いてみても顔が浮かんでくるはずもなく、どんな感情も湧いてはこない。 「侑」 「……え、あぁ、はい」  手際よく雑草を抜き、掃除をして花を手向けた土師から火のついた線香を差し出されて、呆然と立ち尽くしていた侑は我に返った。緑色のそれの先に灯る赤を見つめながら線香立てに供えても、手を合わせる土師に倣って同じ動作をしてみても、やはり侑には前世の片鱗も見つけられはしない。目を閉じて真摯に何事かを祈っているらしい土師の横顔の美しさだけが、侑の心に静かに触れた。  彼は今、何を思っているのだろう。  理知的な漆黒の瞳に映っているのは亡き人、それとも隣に立つ自分。  同じ名前だからいけないのだ。土師がどちらを想って呼んでいるのかが不鮮明なために、侑はいつでも要らぬ不安に苛まれる。 「……土師さん」  発した声は、端が掠れた。 「俺には判りません。ここへ来たら思い出すかもしれないと考えましたが、前世なんてやはり物語の中の出来事としか思えない」 「侑」 「それはどちらの侑ですか」  ちく、と胸の奥が痛んだ感覚がして思わず心臓の辺りを掴んだ侑の利き手を、土師は見逃さなかった。 「野球部員の暴投を素手で受け止めたり、屋上で顔色を気にしたりといった俺の身体への過剰な心配は、桐野侑が病死だったからですか。司書室でのキスは、俺を彼の生まれ変わりと思ってのことですか」 「何を言っている」 「桐野侑でなければ、あなたを好きになってはいけませんか」 「何、だと」 「!」  いつでも冷静な土師の声が僅かに上擦るのと同時に、侑も自分の口から思わず飛び出した言葉に狼狽して顔を強張らせた。しばらくはどちらも無言のまま、過ぎてゆく風の音を聞く。 「自覚したのは、あなたが3階の窓から飛び降りようとしたときです。俺のクビなど、本当はどうでもいい。ただ、あなたを失うのがとても怖かった……」  あの瞬間、侑は身の内を駆け抜けた感情の名を恋だと知ってしまった。だからこそ、己と桐野侑の境目を明確にしたいという願望が生まれた。侑自身の土師への気持ちは前世の影響からではない、もっと端的に言ってしまえば土師には過去よりも今の自分を見てほしいと強く願う気持ちがあった。 「俺は鈴川侑としての自分しか知りません。だから桐野侑の身代わりで愛されるのも、桐原潤一郎への気持ちを求められるのも絶対に嫌です。鈴川侑のまま、土師潤一郎であるあなたを好きではいけませんか」 「本気で言っているのか」  自身の胸元を掴んだまま離れぬ侑の左手を、土師は見つめた。  愛しい、と図書室で呟いたのは半ば無意識だ。前世と今生、ふたりの侑の間で揺れ惑った気持ちが優先したのは、鈴川侑の無垢さだった。亡き恋人との時間はもう戻らない。そして、自分のせいで鈴川侑が苦しむことだけは避けねばならない。そのままでいいと告げたのはそのためだった。 「嘘の方がよければ、そうしておきます」  やはり求められているのは桐野侑なのだと、懸命に上げていた視線を下ろしかけた侑の顎を、だが、次の瞬間、土師が素早く掬い上げた。 「……んっ」 「嘘にはするな。これが土師潤一郎の答えだ」  渇いた唇同士が軽く触れただけの、1秒にも満たぬキス。けれど十分満足して、侑は儚げな微笑を見せた。 「そもそも、こんな所で」  告白には似つかわしくないと言いたげに周囲に立ち並ぶ墓石を見回して土師が箒と塵取りを持ち、来た道を辿り出す。肩越しに桐野家の御影石へと振り向き、目礼したのが侑にも判った。 「もう1カ所、行きたい場所があります」 「……それは」  夢で見る、朝靄に浮かび上がる橋を詳細に説明すると、土師の表情が真剣味を帯びた。  墓苑からさほど離れてはいない住宅街の外れに車を停めると、アスファルトに降り立った侑は何かに引き寄せられるかのように古びた橋へと歩き出した。どこの町にもあるような、近隣住民の生活道路から続く片側1車線のそれの両端には歩道があるが、今は誰の姿もない。  桐原潤一郎はいつも冷えた欄干に掌を載せていたと思い出し、侑は橋の袂から車の脇に立つ土師を振り返る。  侑自身と桐野侑が別人であるように、均整の取れた美しい体躯を持つ大人の男である土師と少年の姿の桐原潤一郎を結びつけることができず、奇妙な寂しさを胸に感じた。  憂愁を振り切るように一歩、橋へと足を踏み出す。  ――刹那。 「……っ」  どく、と高鳴った鼓動を痛みのように感じた侑の靴がコンクリートの上で止まった。  背後から吹いてきた風に髪を煽られたと思った直後、侑は自身の肉体を離れ、霧のように現れた少年の姿に目を瞠った。 「君は」  栗色の髪と白皙の肌。左目の下に小さな黒子があり、白いシャツと黒いパンツの制服に細い肢体を包んでいる。静かに上がった左手がかき上げた前髪の下に現れたのは、額に走るひとすじの傷痕――。 『ユウ』 「!」  いつからそこにいたのか、橋の中央には同じ制服姿の桐原潤一郎が立っている。 『イチ』  呆然と立ち竦む侑を追い越して半分ほど橋を渡った桐野侑が桐原潤一郎と手を繋いで、同時に侑と土師へと振り向いた。 「これは……」  現実? と言えずに侑が声を飲み込む。  異変を感じて駆けつけてきた土師も、言葉を発しない。冷徹な瞳さえもが今はただ少年たちを凝視するだけで精一杯だと言うように、前方を見据えて静止していた。  はらはらと落ちる桐野の涙が陽光に煌めいて、拭おうとする桐原の指を濡らす。  学校職員である侑が、生徒たちと変わらぬ背格好のふたりのためにハンカチを探してジャケットを探ったが、こんなときに限って見つからない。困惑する侑がおかしかったのか、前方で桐野がふふ、と笑う気配がした。 『ありがとう、鈴川さん』  自分とは違う、けれど明らかに何かを共有しているのであろう少年の軽やかな声を聞き、侑が泣き止んだ桐野と目を合わせる。 『土師さん、すみません。あなたには記憶があったので、同調しやすくて』  すまなそうに告げたのは、桐原だ。 『ご自身の意思でユウを呼んでいたとお思いでしょうが、半分は俺の意思です』 「……あぁ」 『怒っていますか』 「いや。おかげで俺は鈴川侑に出会えた」  転生後の自分たちである土師潤一郎と鈴川侑の意識に潜み、桐原と桐野は互いを探していたのだと土師は侑より早く飲み込んで、口元に不敵な笑みを刻んだ。 「ここから先は、俺と侑自身の人生という解釈でかまわないか」 『ええ、もちろん。おふたりには長期間、お世話になりました。ユウと再会させてくれたことに感謝します』 『鈴川さんが得るはずだった前世の記憶は、俺が封じてた。病気やイチとの別離の辛さに、あなたが傷つかないように。ごめんね』  肩を抱き、抱かれる少年たちの姿が陽光に薄れ始める。もう行くね、と桐野が言った。 『ユウを連れてきてくれてありがとう』 「俺の方こそ、ありがとうだよ!」  守ってくれて、と侑が声を張ると同時に少年たちを天へといざなうように爽涼な風が吹き抜けて、やがてその姿は碧空に溶け込んだ。 「……ぁれ……」  突如くらりと大きく視界が回るのを感じ、侑は華奢な身をよろめかせた。突然起こった強烈な眩暈に驚き、土師に縋って体勢を整えようとしたが、意に反して膝からは力が抜け落ちてゆく。 「……な、に……」 「侑!」 「……急に……とても、眠……く……」  即効性の睡眠薬を摂取したかのように意識が遠のき、言葉も曖昧になる。重くなってゆく目蓋を持ち上げようとする気力も徐々に奪われ、伸べられる腕も視野が霞んで見えなくなった。  目前に広がる黒は土師の纏う上質なシャツ、それとも暗闇。  そう思惟した直後、侑は土師の腕の中へと頽れた。
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