7 夢の真相

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7 夢の真相

『桐原潤一郎だ』  よろしく、と握手を求めたら、後ろの席の彼はそう名乗った。抑揚のない口調に反し、艶やかな漆黒の髪と双眸がとても綺麗で印象的だった。握り合った手が温かかった。 『かっこいい! すごく似合ってる』  力強い響きを持つ名前を素直に褒めたら、精悍な面差しに、はにかむような笑みが浮かんだ。優しく見えて嬉しかった。  窓越しに咲き誇る桜を背にした潤一郎が一枚の写真のように美しく見えた、高一の春。  激しい雷雨に見舞われ、駆け込んだ神社。  賽銭箱の後ろへ隠れると同時に雷光が閃いて、耳を劈く雷鳴が轟いた。 『侑』 『……いいよ、イチなら』  恐怖と寒さに震える指を繋ぎ合い、初めての口づけを交わした、十六の夏。  冬休みに入った途端に体調を崩し、クリスマスも正月もなく寝てばかりいた年末年始。  三学期早々、教室で眩暈を起こし、額を机の角に打ちつけながら床へ倒れた。  気を失う直前に見たものは飛び散った血の赤と、驚愕に見開かれた潤一郎の瞳の漆黒。  様々な検査の末に最悪の結果を聞かされた、高一の冬。  病室で迎えた、二度目の桜の季節。  学校生活の記憶はない。  潤一郎が背にして座る、病室の窓ガラス。  その向こう側へ、自分は帰れない。  来る日も来る日も、見上げる先は灰色の天井ばかり。  高三に進級したのか、退学したのか。  誰も教えてくれないままの、三度目の春。  潤一郎の制服の肩に桜の花びらが一枚、ひそやかに載っていた。  最初の入院の日には冗談めかして、その後は少しずつ重みを載せて。  繰り返してきた願いを、今日も呟いた。  きっとこれが、遺言になる。 『生まれ変わっても、俺を見つけて』  やつれた指は、潤一郎の頬へ伸ばせただろうか。目蓋をあげる力は皆無だが、せめてもう一度、その瞳を見つめたい。 『約束だ。必ず見つける。心配するな、侑』  握り締められた手の温かさに安らいで目を閉じる寸前、渇いて割れた唇を精一杯の気力で開く。 『ありがとう、待っている』  届いたと信じたい。  十八歳、若葉のころ。 潤一郎との、最期の約束。 「……土師、さん」  前髪を梳かれる心地よさに意識がゆっくりと浮上するのを感じて、侑はそっと目を開けた。眼前に見える土師の指は直前までの少年のものではなく、長く綺麗な形をした大人の男のものへと成長している。  見上げる天井は、薄汚れた病室のそれではない。名称は判らぬが、多少の柔らかさを含む何かで出来ているようだ。  天井も窓ガラスもとても近い狭い空間は、土師の愛車の中らしい。倒した助手席のシートに寝かされていることに気づいて、侑は小さく安堵の息を吐く。肘をついて身体を起こすと、上半身に掛けられていた土師のジャケットが膝へと落ちた。 「具合はどうだ。帰れそうか。それとも病院を探すか」  目覚めた侑に、土師もホッとしたように表情を和らげた。 「……大丈夫です」  首を左右に振って病院を断りながら、夢の中で得た情報をどう切り出そうかと思案する侑の視線が土師の唇の上で止まった。  震えをごまかそうとするように噛み締められたそれは、白く変色して痛々しい。  橋の上で出会った桐原潤一郎は自身と土師、半分ずつの意識で桐野侑を呼び続けたと語っていた。桐原がその身を離れた今も、土師にとっての桐原の人生は自身のそれと変わらぬ重みがあるに違いない。  侑が目覚める直前まで見ていた過去の景色の中で、桐原潤一郎は愛する者を失ったのだ。桐原と記憶を共有している土師にとっても、突然倒れて眠り込んでいた自分を見守るのは、さぞかし怖ろしいことだったのだろうと侑には思えた。 「すみません、体調は問題ありません」  白い両手に土師の頬を包み込み、侑はその唇へ自身のそれをそっと近づける。  なぜ今、土師に口づけたいと思ったのかは判らない。  夢の底でほんの一時とはいえ桐野侑の心に同調してしまったせいか、倒れた侑を按じてくれた土師に深い愛情が生じたためか。けれど、考えるほどに答えは侑から遠ざかる。  濁りのない漆黒の瞳にただ心を奪われ、吸い込まれるような衝動に駆られたことだけが、侑の手の中にある真実だった。 「……侑」  静かに重ねられた侑の唇にひんやりとした感触を伝えられ、土師は瞠目した。  少年たちとの不思議な時間を過ごした直後、強烈な眠気を訴えて気を失った侑は運び込まれた車のシートで1時間ほど眠っていた。  整った寝顔はどこか幼く、桐野侑の死を思い起こさせられて苦しくもあったが、土師は彼を起こせぬまま、その髪を梳き続けてしまっていた。かつて無機質な白い病室で眠る恋人に、桐原潤一郎がそうしていたように。 「言っておくが」  一瞬だけ触れた唇は即座に離れ、新たな熱を呼ぶ前に土師は言葉を紡いだ。それは教師として生きる土師潤一郎の冷静な話し方だったが、シートを起こして座り直す侑に語りかける声の硬質さに驚いたのは、侑ではなく土師自身だった。 「どんなときも、俺が体調を気遣った相手は目の前の侑だ。桐野ではない」  死者の身体など今更気遣えるはずがないと判らぬ侑ではないだろうに、苛立ち紛れの強い口調でそれを言わずにいられぬのは桐野侑に対する嫉妬ゆえなのだろうと、いつのころからか土師は気がついていた。  侑への恋心を自覚し、彼の弟に嫉妬する自分を知ってしまったせいかもしれない。 「飲める方を飲んでおけ」  侑が眠っている間に自販機で購入したスポーツドリンクと緑茶を差し出し、土師はステアリングを握ってアクセルを踏み込んだ。  いただきますと呟いた侑が選んだのは、まだほんのりと熱を残した緑茶だった。 「桐野侑は幼い俺に、辛い記憶を見せずにいてくれたんですね。今の俺なら受け止められると、判断してくれたのでしょうか」  話し出した侑の左手はペットボトルの蓋を緩めては締め、締めては緩めるという動作を繰り返しているが、どうやら無意識の行為であるらしい。語ろうとしている内容にそれだけ強い緊張を強いられているのだろうと、土師は無言で運転しながら推察した。 「出会いから永劫の別れの瞬間までを、時系列に沿って映画のように拝見しました。最初の春から神社でのキス、額に傷を負った理由……最期の約束も。すみません」  侑にとっては土師と桐原潤一郎の大切な思い出を盗み見た感覚だ。言わずにはいられなかったのであろう、小さくも誠実な謝罪が走行音に混ざって土師の耳へと届いた。 「自分の前世が桐野侑だったという自覚は俺には持てないのですが、土師さんのそばにいることを許してもらえたとは思えました」 「確かに、あいつは大切なものほど信頼できる人間に託したいと考える奴だった。長くは生きられぬことを知っていたからだろう」  暮れてゆく上空をフロントガラス越しに眺めた土師の目が切なさに揺れながら前方の信号へと戻っていくのに合わせ、侑は緑茶を一口、飲んだ。  現世に転生した土師の呼び声を聞き取った自分は、桐野侑に違いないのだろうと本当は思う。が、鈴川侑として生きてきた二十五年の歳月を、そう簡単に覆せないのも事実だった。 「大切な土師さんを、俺に託してくれたということでしょうか」 「そして、推定、自身の生まれ変わりである鈴川侑を俺に託してくれたということだ」 「推、定……」 「おまえが自覚出来ぬのならば、そうとしか言いようがない」  茶に濡れた唇を手の甲で拭った侑の視線が、手にしたボトルから左側の窓を流れる景色へと移る。  自分はいつかまた、あの御影石の墓石を訪ねるだろうか。  まだ重さの去らぬ頭が正解のない迷路を彷徨ってしまいそうで、このまま弟の待つ部屋へ帰るのが躊躇われた。と同時に土師をひとりにする気にもなれず、侑は右側に座る男の袖を軽く引く。 「俺と心中する気になったか」 「し、心中っ!?」  物騒な発言に吃驚し、侑は思わず土師の袖から指を離した。  なぜ突然そんな話になるのかと、栗色の双眸を瞬かせる。 「運転中に腕を取られたら、安全は保障出来ないぞ?」 「あっ……」 「俺も言えた立場ではないが、な」  図書室の窓から飛び降りようとした一件はなかなか面白かったと内心で笑い、土師がステアリングから離した片手を侑の頭上へ載せると、青白く見えていた侑の頬に朱が走った。  こいつを振り回し、心配をかけ、狼狽させて、安堵や親愛の表情を引き出すのは案外悪くはない――そう思って、土師が咽喉の奥で微かに笑う。  鈴川侑のくるくると変化する表情をずっと見ていたいと思う自分の感情の名称など、深々と考えるまでもないことだった。偶然にも路上で肩が触れたあの瞬間に自分は恋に落ちたのだと、今ならば信じてしまえそうな気がした。 「土師さん?」  首を傾げ、不思議そうに見つめてくる艶やかな栗色の瞳が堪らなく、いい。 「改めて言う。俺は土師潤一郎として、鈴川侑に惹かれている」 「……!」 「墓地での告白よりは、幾分かマシだろう」  赤信号で車を停めた土師の左手が、隣に座る侑の頬を捉える。ゆっくりと目を合わせ、唇を近づけた。 「好きだ、侑」 「あ……あぁ。その節は」  墓地での、という部分にうろたえて、短いキスが終わると同時に侑は両手で顔を覆った。そんな場所で、先に気持ちを吐き出してしまったのは自分だ。しかも、肝心の一言を言えてはいない。  好き、という、たった二文字を。  侑の内心の動揺を知ってか知らずか、ナビを一瞥した土師の目に悪戯を思いついた子どものような笑みが宿った。 「この先に温泉街がある。一泊していくか」  明日は日曜。部活に所属していない者は、生徒も教師も司書も休みだ。同じ職場に勤めているのだから、互いの予定は知り尽くしまくっている。 「はい、是非。では、弟に電話を」 「ド」 「ど?」  ド金髪に、と言いかけた声を、土師は咳払いでごまかした。  侑にべたべたと懐いている犬のような弟に軽く嫉妬の念が湧き上がったが、それが現世に於ける侑の家族なのだから腹を立てる方が間違っている――と、頭では判っている。  頭で、は。 『俺専用の温泉饅頭、二箱買ってきて! 絶対二箱だよっ! あ、三箱でもいいっ』  突然の兄の外泊にショックを受けたらしい香の怒声が侑の耳だけに収まりきれず、走行音を駆逐する大音量で車内に響き渡った。
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