最終話 見果てぬ夢の、その先へ

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ふと目が覚めたのは、夜も明け切らぬころだろうか。散々に泣いて重くなった目蓋を上げた侑の目前で、情交に疲れた男が静かな寝息を立てている。  ふたりでひとつの掛け蒲団にくるまり、気怠い余韻に身を任せながら、侑はそっと土師の肩へと額を寄せた。 「俺には二十五年分の鈴川侑の記憶と、高校時代だけの桐野侑の記憶があります」  聞いていても、いなくてもかまわない。ただ心に浮かんだことを言葉にしたい一心で、侑は澄んだ声を早朝の空気へ投げかけた。 「ふたつの記憶があってもこの世に実在し、人目に映る人間としての俺はひとりです。いつか自分が桐野侑だと自覚できるかどうかも判りません。これから先、何かを思い出して混乱するかもしれないという恐怖もありますが、ふたりの侑が同一人物なのだと実感できるまでは、自分と彼とで1.5人という感覚を持って生きてゆこうという覚悟は決めました」  十八年の短い生涯と、それよりもう少しだけ長い現時点までの年月。この先の人生でそれらは穏やかに融合し、ふたりの侑はやがてひとりの侑になる。そんな日が来るかもしれないと思える自分が今は、いる。 「……そうか」  もぞ、と隣に横たわる男が動いて、侑の頬に大きな掌を当てた。 「それはいい。俺は既に桐原潤一郎と同一の意識でいるから、俺と侑で2.5人だ」  起きていたのかと驚いて瞬いた侑に甘い声を聞かせる土師は、まだ僅かに眠そうだ。人間の数え方としてはおかしいが、今の自分たちにはしっくりくると言う声に、静かな微笑が加わった。 「空即是色という言葉がありましたね」 「……万物は実体性を持たぬ、か」 「けれど、物質的現象として成立する……。不思議ですよね。ヒトの魂も、そういうものなのでしょうか」 「あぁ。そうかもしれないな」  そうなのだろうと囁きながら近づいてくる唇に応えつつ、侑は目蓋を伏せ、安寧に身を委ねた。  橋の上に現れたふたりの少年は、侑と土師として生まれ変わった魂の片隅に残された、思念のようなものだったのだろうか。手を取り合って天へ昇りたい、その一念だけで互いを探し、ようやく今日、それが叶った。永い、永い旅だった。 「侑?」  不意の眠気に誘われたのか胸元に聞こえ始めた愛しい人の寝息に耳を傾けながら、その整った寝顔を見つめる土師の顔には侑の穏やかさとは反対に影が差す。  慟哭とともに見送った、あの日の少年とは何もかもが異なるが、目を閉じて動かぬ侑には若干胸を締めつけられずにはいられない。  希求し続けた末に再会を果たすことができたとはいえ、この命も永遠ではない。来世も自分が彼を、彼が自分を求めて彷徨うことになるのか。或いはこの人生に満足して輪廻の輪に足を踏み入れる気になれるのか。  それは、この先のふたりの生き方に左右されてゆくのだろう。 「桐原の最期を知ったら泣くか、侑」  苦く呟き、土師が過去を脳裏に還す。  桐野侑の四十九日法要を終え、自宅近くの交差点を渡っていたときだ。青信号に従って横断歩道の中ほどを歩いていた桐原潤一郎は、近づいてくるトラックの走行音を聞き取った。そちら側の信号は赤のはず、と思った瞬間には、2トン車は目前へと迫っていた。  ――侑。  愛しい人の面影を封じ込めるように目を伏せ、口元に微笑を刻んだ刹那、桐原潤一郎の人生は閉じられた。  事故の全容を知ったのは、土師潤一郎として大学生となった年の夏。  過度の飲酒によって正常な判断力を失った運転手は信号を見落とし、トラックはそのまま交差点へ進入、潤一郎とともに小学生男児と祖父が犠牲になったと、図書館に置かれた新聞の縮刷版に記されていた。  生き続けたかったであろう桐野侑には自死だと責められそうだが、彼のいない世界で生きることに絶望していた桐原潤一郎には好機到来と言うべき状況だった。  おかげで現世に転生が叶った。  結果オーライだ、と自嘲の浮かんだ唇に、身じろぎをした侑の髪が触れた。 「……イチ……」 「!」  懐かしい呼び名を聞いた気がして身を起こしかけ、だが、と思い直す。己が誰で、彼が誰でもかまわない。ふたりは新たに出会い、濃淡こそあれ過去と現在を共有しているのだ。努力次第で、新たな関係を築いてゆくことは可能だろう。 「鈴川侑に何を求めているかと訊いたな。答えは、特別なことは何も求めていない、だ」 安らかに眠る頬を撫で、土師はようやく辿り着いた答えを舌先に載せた。 「友人と語り合い、楽しみを見つけ、美味いものを食い、想い合う誰かと添い遂げる生涯を送ってくれたらそれでいい。いつか、俺以外の誰かを愛しても……」  幸福であってくれれば、と言いかけて、土師は息を飲んで瞠目した。熟睡しているとばかり思っていた侑が、しっかりと目を開けていたからだ。多大な不満を湛えた栗色の瞳が、正面から強く土師を睨み据えた。 「何も求めてはいない? 他の誰かを愛しても? あなたにとって、俺はその程度の人間ですか」 「……何」 「俺には沢山ありますよ、あなたに望むこと」 「!」  不遜に笑み、一瞬で身を翻した侑が、仰臥する土師の顔の両側に掌をつく姿勢で彼を見下ろした。 「友人と語り合い、楽しみを見つけ、美味いものを食い、想い合う誰かと添い遂げる。そんなごく普通の生涯は、桐原潤一郎にも叶えられなかったものでしょう。やり直すなら、俺はあなたと一緒がいい」 「……侑」 「勿論、あなたが俺以外の誰かを愛することは認められないし、許せません」 「侑」  それはどちらのと、侑はもう問わない。  夢に聞き続けた声の主に、幼少の折から心を奪われていた自分を侑は自覚した。  激しい執着。それは、狂おしいほどに純粋な恋心だった。そんなものを向けられて、惚れるなというのは無理な話である。 「彼らのことと土師さんのことを、教えてください。俺たちには、まだまだ時間があるでしょう?」  カーテン越しに射し始めた朝日の気配を感じ取り、侑はシーツに身を起こす。まっすぐな背に浴衣を掛けてやりながら、土師がその首筋に落とすキスは温かい。 「話そう。二年と少しの儚い恋と、二十五年の俺のこと、侑のこと。これから先の、ふたりのことを」 完
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