2 夢の中から来た男

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「……は」  晴れ上がった空に沈鬱な溜め息をひとつ吐き、侑は私立高校の正門を潜った。大学卒業後、図書室付きの司書として勤め続けている、通い慣れた職場だ。  等間隔に並んだ桜は、今が見ごろとばかりに咲き誇っている。木々の向こうに2階部分を連絡通路で繋いだ瀟洒な白亜の学び舎が2棟、建っていた。職員玄関は手前の校舎だ。 「はぁ……」  再度嘆息し、指先で目元を拭った。  最初が肝心と気合を入れていたはずの新学期初日の早朝は例の夢で泣きながら目覚めることとなり、幸先の悪いスタートに何度溜め息を吐いても気持ちは晴れない。 「そこにいてくれって、どこだよ」  大きめの独り言が地面に落ちる。  幼少期から延々と自身を呼ぶ正体不明の誰かが、不意に距離を詰めてきたような感覚。それを不安に思わぬわけではないが、目覚めた直後の酷い切なさと苦しさが誰によって齎されているのかを知りたい気持ちも確かにあった。 「……春、か」  立ち止まって頭上の桜を仰いだことに、深い意味はない。校舎へ続く道は敷地を囲むフェンス側が桜並木、もう片方には膝の高さほどの低木が植えられ、その向こう側はグラウンドになっている。早朝からいくつかの運動部が活動しているらしく、ユニフォームや体操着姿の生徒たちが走り回り、歓声を上げる様子が覗えた。 「わっ」  突如、身体の真横を疾風が駆け抜けた気がした侑の咽喉から、迸った響きは驚愕だ。ばさり、と大きな影に視界を塞がれ、巨大な黒い鳥が翼を広げて舞い降りてきたような錯覚に目を瞠る。  ユウっ、と焦燥を含んだ男の声が間近で上がったが、職場でそんなふうに自分を呼ぶ人間はいない。一瞬、夢の中の光景に心を捕らわれ、両足がその場に釘付けとなった。 「無事か!」 「え、な、何っ……」  肩越しに振り返ってきた相手の顔を見た侑の、華奢な体躯が硬直した。目の前へ現れたのは、想定外の人物だ。 「どうして、あなたが」  先日の夕刻、偶然出会った長身の男がそのときと同じ黒いコートを纏って至近距離に立っている。その袖から伸びた掌に握られているのは、携帯端末ではなく汚れたボールだ。 「すみませーん」  続いて飛んできたのは男の緊迫感とは正反対の、妙に明るい少年の声だった。野球部のユニフォーム姿で駆けてきたふたりの手には、使い込まれたグローブが嵌められている。 「暴投にも程がある。一歩間違えれば大事故だ。気をつけろ」 「申し訳ありませんでしたぁっ」  侑へ向かって深々と腰を折るふたりのうち背の低い生徒のグローブにボールを落として安堵の息を吐く姿は、何度見てもあのときの男以外の者には見えない。 「大丈夫か、ユウ」  見下ろしてくるその顔が、心なしか青ざめているかのように侑の目に映る。軟式とはいえ、高速で飛んできたボールに直撃されたら確かに無傷では済まなかっただろう。新学期早々生徒の投げたボールで負傷、搬送、入院という不運を想像し、侑の膝からは力が抜けそうになる。男に腕を掴まれなければ、本当にそのまま地面に座り込んでしまっていたかもしれない。 「大丈夫なわけ、ないでしょうっ」  体勢を立て直しながら動揺を飲み込んで、侑は自分を鼓舞するように声を荒げた。 「どうしてあなたがここにいるんです? 俺の名はユウで確定ですか。何を根拠に?」 「おまえが否定しなかったからだ」 「……っ」  平然と答えた男は、碧空を背にして立っている。艶やかな黒髪、気の強さを表しているかのようなまっすぐな眉。鋭い眼光を放つ漆黒の双眸はあの日と変わらず、均整の取れた屈強な体躯に黒いロングコートが似合っている。夜空の下では判らなかった美貌が鮮やかに目に映り、憎々しいと思いながらも侑は素直に目を奪われた。 「系列校から異動してきた。今日から同僚だ。よろしく頼む」 「いっ、どっ」  異動、同僚、と言おうとした唇が、驚愕に震えて上手く動かない。 「高校教師だったのですか」 「おまえもな」 「俺は司書です。こんなことより、おまえ呼びは不快なのでやめていただけませんか」 「……ふ。どの口がそれを言う」  名を問われた瞬間に怯えの色を見せた自分を棚に上げる侑に、男が小さく笑った。そんな顔までもがいちいち綺麗で腹立たしい。 「改めて訊く。名は何という」 「俺は……鈴川侑です」 「すずかわ、ゆう」  同僚と知って今度こそ躊躇わずに発されたそれを、男は小さく舌に載せた。それはまた何と慎ましやかな、と思う反面、やはり前世の『桐野侑』とは別人なのだと知り、記憶の中の少年と目の前の侑との齟齬に落胆を感じそうになる。 「俺の名は土師潤一郎だ」  願いを込めて名乗った。鈴川侑が、断片的にでも桐野侑としての生(せい)を記憶してくれているように、と。 「土師潤一郎、さん」  だが、祈りも虚しく、侑は告げられた名をきょとんとした顔で繰り返しただけだ。  虚無感に襲われる土師を見上げる瞳が――しかし、不意に笑みを形作った。 「かっこいい! あなたにとても似合いの名前です」 「!」  甘く整った侑の面に浮かんだ過去の一片を、土師は瞠目して見つめた。純粋な称賛の言葉はそのまま、前世の侑が口にしたものだったからだ。  出会いは高一の春。ふたりは五十音順の学籍番号で、前後の席に座っていた。 『俺は桐野侑。よろしく』  身体ごと後ろの席へと振り返り、屈託のない笑顔を見せて、侑は言った。開け放った窓から吹き込む風が、その髪に肩に桜の花びらをいくつも降らせていた。 『桐原潤一郎だ』  子犬か、と無邪気な気質に突っ込みたいのを我慢して――前世の土師――桐原潤一郎は握手に応じた。 『かっこいい! 凄く似合ってる』  どちらかといえば独りを好んでいたはずの自分が同級生からの単純な褒め言葉ひとつで一瞬にして懐柔されるとは思わなかったが、侑の笑顔は素直さに満ちていて、己の名を誇らしく感じたのも事実だった。  咲き誇る桜を背に微笑む侑が、宗教画の天使のように美しかった。 「土師さん?」  照れたのだろうか。  かっこいい、と言った瞬間に大きく目を見開き、すぐに片手で顔を覆ってしまった土師を見て、侑はそう思惟しながら遠慮がちに呼びかけた。精悍な顔立ちのクールな美形という印象が、ほんの少しだけ柔らかな方向へと変わったように思えるのは気のせいだろうか。感情表現が苦手なだけで、案外優しい人物なのかもしれないと想像してみる。 「本当に」  吐息に声を滲ませる土師の右手が、そっと侑の頬へと触れた。 「無事でよかった」 「……え」  漆黒の双眸に金色の陽射しが揺らめいて、涙のように零れ落ちそうな幻覚を侑は見る。 「……土師、さん」  顎を捉えられ、語尾が揺れた。見下ろしてくる怜悧なまなざしに吸い込まれそうに感じた侑の足が、アスファルトの上で無意識に一歩、後退する。 「土師さん!」  咄嗟に腕を伸ばし、広い肩を押し戻すと、土師も我に返ったように目を見開いた。 「職場で妙なことをしないで下さい」 「……あ、あぁ。すまない」  俯いて視線を逸らす侑に、土師の声が動揺を含んで返される。職場でなければいいのか、と揚げ足を取られたら金輪際無視してやろうと思っていたのに予想外の謝罪を返され、侑は内心で戸惑った。 「行きましょう」  幸い、土師の奇行を目撃した教職員や生徒はいないようだ。腕時計を一瞥し、侑は桜並木の下を再び職員玄関へ向かって歩き出した。  キスをされるかと思った、などと誰にも言えぬことを考える胸の鼓動がうるさい。  そもそも暴投から救われただけだ。相手が誰であろうと、教師としての土師の行動は変わらなかったに違いない。
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