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4 夢と現実の狭間で
判らない、判らない、判らない、と繰り返し呟きながら自宅へ辿り着いたころには何が判らないのかが判らなくなって、侑は玄関扉を開けるなり狭い三和土に靴も脱がずに座り込んだ。
「侑!」
音を聞きつけたのか、リビングから飛び出し、慌てて駆け寄ってきたのは香だ。
何だかんだと世話を焼きたがる弟に任せていたら、気づいたときには寝間着姿でベッドに放り込まれていた。
丁寧に貼られた額の冷却シートに指先で触れてから、侑は羽根蒲団を目元まで引き上げた。
「久し振りだな、侑が熱を出すの」
「……うぅ」
今ではすっかり健康になった侑だが、幼少期には病弱で手のかかる子どもだった。
成人しても両親は長男の身体を按じ、次男との同居を条件に実家を出ることをようやく許したほどだ。兄としての面目が立たず、侑は蒲団の下で低く唸った。
「何かあったなら聞くよ?」
「香が大人過ぎて困っている」
「それは、だって……ねぇ?」
兄が頼りないからだと言わずにいてくれる弟は本当に大人で、侑は熱に潤む瞳で小さく笑んだ。
「香、カノジョはいるの?」
キスしちゃったり、という問いは勇気が足りずに飲み込んだ。ましてや記憶喪失の恋人を持つ男に事情も判らず口づけられたなどとは、口が裂けても言えるはずがない。
「俺、ド金髪のチャラ男よ。仲良しの女の子は大勢いるけど、カノジョなんていないよ」
「へぇ……」
「それ、どーゆー反応?」
「薬のせいで朦朧と……みたいな」
「あぁ。今夜はもう、何も考えずに寝ちゃえばいいんじゃね? 明日は土曜だし」
「……うぅ」
今時の若者らしく語尾を跳ね上げる弟の方が年長者のように思えて、不甲斐ない兄はまた唸った。
「俺はリビングにいるから」
「香っ」
「ん?」
言葉を遮られても不快に思わず、弟は無邪気に小さく首を傾げた。思わず上げてしまった自身の声と視線に戸惑ったのは、侑の方だ。
香も同じ夢を何度も見るか。
知らぬはずの相手に、名を言い当てられたことはあるか。
記憶喪失の恋人の代わりにキスをされたことは――。
短期間に起こった数々の不穏な出来事を口に出せずに、侑は無難な言葉を探した。
「……あぁ。その、いろいろ、ありがとう」
「うん。おやすみ、お兄ちゃん」
からかうような声を残して、扉が外側から閉ざされるのを、ただ眺める。
「今夜はお兄ちゃん返上です……」
発熱した身体は額も頬も首筋も熱く、侑は蒲団の下の暖かな暗闇に目を伏せる。独りごちて指を這わせる唇は、土師の感触をまだ忘れていないかのように熱を持っていた。
記憶を取り戻させたい恋人は他の誰かだろうに、なぜ土師は自分に口づけたのか。眩暈に足下を掬われたとはいえ、彼の胸に縋った己自身の行動も侑にはうまく理解できない。
怖いはずなのに、土師に対する感情はそれだけではないような気がして自ら指を伸ばしてしまったと思えぬこともない。
「何が、イチだ」
潤一郎を略すのならばジュンだろうと、胸中で毒づく。
やがて浅い眠りに意識の端を捉まれたと自覚した刹那、目前に朝靄が揺らめいた。
『ユ……ウ』
すっかり耳に馴染んでしまった少年の声が、鼓膜の内側から脳へと直接的に呼びかけているように聞こえるのが、堪らなく不安だ。知らぬはずの声も、何度も聞いていればいつしか知っているそれになる。
朝焼けに照らされた橋の中央に佇立しているのは、いつもの少年だ。漆黒の髪、引き結ばれた口元。いつでも川面へと注がれていたはずの怜悧なまなざしは今、橋の袂に立つ侑へとまっすぐに向けられている。
『侑』
少年よりも低い、大人の男に呼ばれた瞬間、土師の熱い吐息が首筋に触れた錯覚がした。驚いて 視線を転じた先は新たな夢で、侑は見慣れた司書室の中央に立っていた。
熱に浮かされたように侑を呼ぶ土師に腕を引かれ、後頭部と腰を抱き寄せられる。いとも容易く扉に鍵を掛けられ、逃げ場は軽々と奪われた。
顎を捉えられ、深い口づけが容赦なく始まる。濡れた吐息が麻酔のように頭の芯を痺れさせ、侑から理性を剥ぎ取ろうとしているかのように室温に融けてゆく。膝の力が抜けそうになり、両手は無意識に目の前に立つ男のワイシャツに縋りついた。
『見つけた』
『遂に辿り着いた』
『「侑」』
「っ!」
夢と現実、少年と土師。ふたりの冷徹な面差しが、声が、瞳が夢の中でひとつに重なったそのとき、侑だけが見ている世界に眩しい金色の光が弾けた。
「……、……っ」
なぜだか酷く咽喉が渇いて、声を出せない。心臓が早鐘を打つ音だけが耳元で大きく響き、彼の名を問うことも叶わず、侑はこめかみを伝う汗を拭えぬまま夢の中に立ち尽くした。
「あなたは誰……そして、俺は……」
絞り出すように問うた直後、景色が一転した。限界まで見開いた双眸に映ったのは、常夜灯に浮かび上がる、白いクロスの貼られた天井――自室だ。
「俺は、彼らは……」
汗に濡れた前髪をかき上げ、侑は両手で顔を覆った。
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