4 夢と現実の狭間で

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 それぞれに週末を過ごした翌週月曜。  学園には生徒たちが集い、日頃の賑わいの中で教師も司書も忙しい。  完成した図書便りを全校生徒と予備の数だけ印刷し、クラスの人数分に分けて職員室の隅に設置されたクラスごとの配布物専用棚へ入れ、侑は一段落した仕事に安堵の息を落とした。あとは各クラスの担任が取り出し、生徒たちへ配るだけである。  その手のモノは貰う側だった自身の学生時代を思い出すと、口元が自然と綻ぶ。あらゆるプリントを受け取る立場であった高校生の自分は作る人間の苦労を微塵も想像せずに落書きをし、紙飛行機を折り、ときには紛失して提出期限を破ったこともあった。良くも悪くも楽しい思い出だ。 「……土師先生」  だが、懐かしい時間にばかり浸ってばかりいられぬのが職場という空間だ。侑は背後を通り過ぎた男の背に意を決して声をかけ、振り返った彼の漆黒の双眸を真正面から睨み上げた。  時刻は4限目が終了したところだ。  司書室での一件以降、土師は何事もなかったかのように各教室へ赴いては授業をこなし、侑は図書室で司書としての業務に従事し、互いに多忙な時間を過ごしていた。  多くの接点を持たぬ司書と教員だが、話さねばならぬ用件を抱えてしまえば、侑も3階の図書室から下りてこざるを得ない。何げなく壁の時計を見遣った土師も、昼休みだと気づいたようだ。 「少々お時間をいただけますか」 「構いませんが。天気もよいことですし、屋上で昼食を一緒にいかがですか。それとも、鈴川先生は食堂派ですか」  業務上、先生と呼び合い、敬語を使う。上司や同僚の手前、気軽に話せぬ不便に内心で苦笑して土師は天井を指さした。了承した侑は司書室に鞄や弁当を置いているため、屋上で落ち合うことにする。 「生徒立ち入り禁止の屋上で昼食が摂れるなんて、教職員特権ですね」  フェンスの前に腰を下ろした侑が蒼穹を仰いで眩しそうに目を細めるのを眺めつつ、土師はペットボトルの蓋を回した。 「……いい天気」 「あまり熱心に空を見るな。吸い込まれるぞ」 「何ですか、それ。普通は、身を乗り出したら落ちるぞって言いませんか」  学校職員としての落ち着きを持って職務に励んでいる侑に覚えず前世の少年を重ね、痛んだ胸に土師が密かに右手を当てる。  桐野侑が煙とともに上った空は、長い年月が経過した現在でも青く遠く、その姿を変えてはいない。  上空へ向いたままの侑が、何を思っているかは読み取れない。が、その白皙の頬へ落ちる影に気づき、土師はふと眉を顰めた。 「顔色が悪いな、侑」 「……あ、いえ」  ふたりきりになった途端に敬語を消して栗色の瞳を凝視すると、侑は逃げるように俯いた。 「ちょっと寝不足なだけです」  週末に寝込んでいたことを語らず、侑は適当な言い訳を返す。土師からの口づけで熱を出したなどと、幼児の知恵熱のようなことを言えはしなかった。 「夢中になっている本でもあるのか」 「……えぇ、まぁ、そんなところです……」 誤魔化されたとは思わぬまでも、歯切れの悪い侑の答えに内心で舌打ちしたい気分を強いられた土師の目つきは知らずに尖る。 「嘘だな」 「! だって……っ」  子どものように言いかけて土師を睨むように上げた目を、侑はまた逸らした。 「まぁ、いい。俺に話があるのだろう」  余計なことを言ったと胸中で悔いて、土師が先を促す。どう話したものかと思案するように視線を足下へ落として短く沈黙し、やがて侑は顔を上げた。 「初対面の日に土師さんに訊かれたとおり、俺には幼少期から見続けている夢があります。この学校とは違う制服姿の少年が、朝靄の中で俺をユウと呼ぶ夢です」  早朝の橋の中央で、彼のまなざしは今にも川へ身を投げてしまいそうに切迫して見えた。ユウを喪った絶望によるものか、整った横顔は酷く冷たく、深い悲しみに満ち溢れている。 「その夢に、どんな意味があるのか俺には判りません。少年が求めるユウという人物も、あなたの記憶喪失の恋人も、俺にとっては知らない人間のはず。それなのになぜ彼は俺を呼び続け、土師さんは俺にキ……を」  キスという単語が恥じらいに囚われ、土師の他に聞くものもいないのに小声になる。熱せられたコンクリートに直接座った膝先に弁当ポーチを置いたままでいることさえ忘れ、侑は正面に座した土師に問いかけた。 「街で偶然ぶつかっただけの俺に、誰かに呼ばれる夢を無数に見ていないかと訊くことができたのはなぜですか」 「なぜと問うのか、その唇で」  答えになっていないことを、土師が悔しげに呟く。その手の中でペットボトルが、ぱきり、と鳴るのを聞く侑は理不尽な気持ちでいっぱいだ。必要な情報を自分だけが与えられていない苛立ちに、拳が硬く握り締められてゆく。理由はともかく睡眠不足は本当で、判断力と忍耐力はとうに限界を超えていた。 「俺はその少年に心当たりがないんです。だからとても不安で、眠るのが怖い……」 「!」  弱々しく紡がれたその本心に、土師が思わず瞠目した。  心当たりがない。不安。眠るのが怖い。  酷い言われようだ。  自分は侑に会いたい一心で、物心ついたころから夜ごと必死に呼びかけ続けてきたのだと、ひと思いに叫んでしまいたい衝動に駆られた。土師とて転生後の十数年間は保護者の庇護の下でしか生きられぬ、ごく普通の子どもだった。成人し、自由や人脈を得るまでは、侑を探すための行動の起こし方さえ判らずにいた。幼少期の土師にできたことは、どこにいるとも知れぬ侑に向かって呼びかけることだけだった。侑が眠っている間のみ、その精神世界に土師の祈りと慟哭が夢となって届くという奇跡が起こっていたのだと、今、侑の口から語られ、ようやく確信できたところだった。 「彼は俺を知っているのでしょうか。いや、所詮夢です。実在の人物かさえ不明だ」 「侑は本当に、そいつを知らないのか」 「本当に? って?」  侑の混乱はまだ続いていた。  紡がれた言葉に激しい虚無を感じ、土師のまなざしが自然と鋭さを増してゆく。  一体なぜ、自分だけが記憶を持って転生したのか。侑はなぜ忘れているのか。思い出させることは不可能なのか。思い出すことに意味はあるのか。  侑の華奢な肩を掴んで揺さ振ってやりたい激情に駆られながらも、指を握り込んで土師は堪えた。 「本当にとは、どういう意味ですか」  強い陽射しを直接受けて、濃い影がふたりの足元に浮かび上がる。見つめ合った姿勢のまま、どちらもしばらくは無言でいた。 「前世を、信じるか」  ぽつりと、土師の唇を割ったのは小さな問いだ。ぴく、と侑の眉が震えた。 「前世? そんな、非科学的な」 「非科学的だと? 本心からそう思うか」  目を丸くする侑と、声を尖らせる土師。その温度差に、屋上を渡る風も一瞬凍る。 「土師さんでもそんな冗談を言うんですね」  信じ難い話に怪訝(かいが)して眉根を寄せ、侑がやんわりと土師の言(げん)を否定するかのように曖昧な微苦笑を浮かべた、その瞬間。 「冗……談などでは、ないっ」  不意の激昂が、土師の総身を駆け抜けた。 「痛っ」  怒りの滲む語調と硬い手に腕を掴まれて、侑が苦痛に綺麗な面を歪ませる。開けたままのボトルがはずみで転がり、ふたりの膝先へ光る水をぶちまけた。 『ユウ』 「侑」 「離してください!」  さほど大きくはないはずの水溜まりが陽光を強く反射し、侑に眩暈を起こさせる。眩しい光の底で、高低差のあるふたつの声が同時に呼んだ名は誰のものなのかと一瞬、惑った。 「冗談でなければ何だと言うんです」 「紛れもない事実だ。幼少期から、夜ごと夢の中で侑を呼び続けてきたのは俺だ。前世の俺たち、桐原潤一郎と桐野侑は高一の春、級友として出会った。当時の侑も左利きで、額の傷の理由も俺は憶えている。ともに27年前に18歳で死亡し、25年前に転生した。侑の死因は高一の冬に発症した病だ。俺が死んだのは、侑の四十九日法要からの帰宅途中。交通事故だった」 「そ、んな」  莫迦(ばか)なと言いかけた声を、侑は飲み込んだ。見つめてくる土師のまなざしがあまりにも真剣で、笑うに笑えなかったからだ。  確かに自分は25年前に生まれたが、その2年前に別の名を持つ人間として死んだ記憶など当然、ない。具体的な数字であるようで虚言だと言って流してしまえそうでもある土師の発言に、侑は小さく首を振った。 「前世なんて、証明できません」  細い指が倒れたボトルを立て直す。侑にとっては、階下の教室やグラウンドから響いてくる生徒たちの賑やかな声の方が、よほど現実味のあるものだ。 「その話が本当に事実なら、もう俺を呼ばないでください」 「……何だと」 「そんな話を信じる気には到底なれません。俺は桐野侑なんて知らないし、何ものにも脅かされることなく安心して眠りたい。正体不明の相手に呼ばれるのも、それについて考え続けるのも、もう疲れました」  足元から響いてくるチャイムを耳に入れ、侑は開けずじまいの弁当ポーチを掴むと、おもむろに立ち上がった。 「俺を眠らせてください」 「っ!」  丁寧に一礼をした痩身の侑が、階段へと続く扉の奥に向かっていく。細い指を掴もうとした土師の手は直前で硬直し、中空に浮いたまま取り残された。 「待て、侑! 逝くなっ」  治療の辛さに泣いた侑を、土師は現在(いま)も心の深淵に留めている。もう眠ら(しな)せてと号泣した、幼い恋人のその姿を――。 「なぜ俺だけが、おまえを憶えている?」  侑の消えた光の届かぬ階段室の暗がりに、桐野侑の棺を飲み込んだ昏(くら)い穴を髣髴とさせられた土師の背が悪寒に震えた。
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