45人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
5 夢のおまえと、今日のあなたと
何夜目だろう、と壁に掛かったカレンダーを眺めてから、侑は傍らに放り出していた読みかけの書籍を手に取った。しおりの挟まれたページを開き、すぐに閉じる。読書に集中できぬまま、本の代わりに持ち上げたカップは空だった。
「おかわり、淹れようか」
「……ん。よろしく」
侑の気持ちが沈んでいるのを察してか、香(こう)が気を利かせてキッチンへと入っていく。
間もなく運ばれてきたものは、湯気を上げるココアだ。香の淹れるそれが、侑は好きだった。
「難しい本でも読んでるの?」
並んでリビングのソファに掛けて、香が侑を見ずに問うた。気遣い上手な弟の目には、テレビの中の女子アナが映っている。
「……前世とか」
「侑、そーゆぅの好きだっけ?」
ぽき、と香の歯が棒状のチョコ菓子を折る。ローテーブル上から侑もそれを1本取り上げ、唇に挟んだ。
土師が例の夢に対して『前世』という意想外の単語を繋げようとした日から早(はや)数日、どんな夢も見ずに熟睡できる夜が続いていた。おかげで体調は万全なのに、気持ちだけがなぜか晴れない。
自分を呼ぶ人物の正体と、その理由。
知りたいと長期に渡って思い続けてきたのは嘘ではないが、突如目の前で開示されそうになったそれに怯み、侑は真昼の屋上で土師の言葉を拒絶した。
真冬の朝の夢を見なくなったのは、呼ばないでくれと彼に告げた日の晩からだ。
それは、声の主が土師だという証左なのだろうか。そうでなければ納得できないと感じる反面、ごく普通の人間に他者の夢へ干渉する能力があるなどと信じる気にもなれない。
「……前世、か」
前髪に隠した額の傷を母は生まれつきだと語り、侑も微塵も疑わずに育ってきた。けれど、出会って間もない土師がその原因を知っていると言う。
桐野侑という人物が負った傷を持って自分は生まれ変わったのだと声高に教えられても安易に信じる気にはなれないが、土師は出会いの瞬間からふたりの侑が同一であることに気づいていたのだろうか。
駅前の路上で、土師は偶然肩が触れただけであるはずの侑を質問攻めにし、断りもなく前髪を無造作にかき上げた。知り合う全ての男性の額を確かめてはいないまでも、あの手慣れた仕草は初めてとは思えない。
本当に、彼は桐野侑を探し続けて生きてきたのか。桐野侑が鈴川侑であるのならば、自分だけが前世を忘れ、思い出せずにいる理由は何なのか。
考えれば考えるほど、25年という歳月をかけて構築してきた『鈴川侑』以外の何者でもないはずの自分が判らなくなり、足元から崩れ落ちてゆくような不安を感じる。
長らく望んでいた静穏と安眠が訪れたのに、土師の言葉が気になって仕方がない。
あれほど自分に執着し、執拗に呼びかけておきながら、たった一度の拒絶だけで引き下がるのかと、腹立たしさも湧いてくる。
あの声に呼ばれること、呼ばれぬこと。
どちらにしても、釈然としない気分は拭えない。
――胸が、苦しい。
「これ、甘すぎない?」
唇を汚すチョコレートを舌先で舐めつつ、侑は完全に本を諦め、テレビへ目を向けた。
「美味しいよ。オレは好き」
幼少期と変わらぬ笑顔で、香が笑った。
侑にとっての人生は間違いなくこちら側だと、実感させる明るさで。
最初のコメントを投稿しよう!