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4
改札を抜け、ホームに向かった。その時に一度振り返ったのだけれど、わたしの視界はスーツの人群れの中に、あの老人の黒い帽子を捉えていた。
――いる。
わたしは滑り込んできた電車に慌てて乗り込む。
車内は混み合っていたが運良く二人分の席が空いていて、わたしは不意の心労を落ち着けるようにその席に腰を下ろした。
「すみません」
だがそう言ってわたしの右隣に座ったのは、あの老紳士だった。思わずわたしは席を立とうとしたが電車は動き出し、立ち上がる機会を失った。
その老紳士はわたしが座り直したのを見て、にこりと笑みを浮かべる。それから「はじめまして」と挨拶をしてきた。
つまり彼は明らかにわたしに用がある。
その彼に何と返したものか、それともすぐに悲鳴でも上げてこの場を立ち去ろうかなどと逡巡したけれど、彼はわたしが何か口にするよりも早く、こんなことを尋ねてきた。
「幽霊席のお話をご存知ですかな?」
「え、ええ……」
「ある女性の右側の席に何故か誰も座らない、それがいつしか“幽霊が座っているんじゃないか”と言われるようになった、そんな都市伝説のようなものですが」
「知っています」
おそらくわたしのことだと知った上で訊いているのだろう。
老人は表情一つ変えず続ける。
「けれど幽霊など、実在するのでしょうか」
その口ぶりは明らかに存在を信じてなんかいなかった。彼はそのままわたしの返事を待たずに続けた。
「坂見悠乃さんは確かあまりそういったものを信じられない方でしたな」
「ひょっとして新聞記者か何かなんですか?」
でなければわたしの名前をわざわざ知っていると誇示する意味が分からない。
「もし私が記者であるなら些か年を取りすぎている、とは思われませんか」
「そうかも知れません。けれどわたしが知らない世界なら常識が通用しない、ということもありえますから」
彼は微笑し、「確かに」と頷いた。
「ともかく記者やライターといった類の人種ではありません。まずはこちらをどうぞ」
彼が差し出したのは住所などの余分な情報が全く書かれていない簡素な名刺だった。そこには『剣城鋼太郎』という彼の名と、その右隣に小さく『剣城コーポレーション代表取締役』と書かれていた。
「代表取締役……そんな方がどうしてわたしに?」
剣城コーポレーションといえば服飾品を中心に業績を上げている地元の大企業だ。
「最近の若い方はあまり新聞などは読まれませんか」
あ……。
その言葉で今朝の講義で先生が言っていたことを思い出した。
「既に新聞各紙で発表されていますが、多くの腕利きの職人たちが皆定年を迎え、残っていた者も中国や東南アジアといった国々に出て行ってしまい、剣城のブランド力の礎となっていた宝飾、服飾業界ではもうその力を発揮することが叶いません」
彼はそこで一旦息をついてから、続きの言葉を口にした。
「そしてこれが一番の問題なのですが、私たちには跡継ぎがいないのです」
「別に血縁に拘らなければ誰でも良いんじゃないですか?」
跡継ぎ、という言葉に、彼がわたしに何かとんでもないことを打ち明けるのではないだろうか、などと妙な想像をしてしまった。けれど生憎と学生時代からそういった話題から縁遠い存在で、壁の花という言葉を覚えた時にわたしはその中でも更に存在感の薄いかすみ草だろうと思ったくらいだ。
「まずはそのことについて、お話しなければならないようですね。我々が何故あなた様のお隣に誰も座らせないようにしていたのか、ということについて」
それは意外過ぎる告白だった。
「え? あなたの仕業だったんですか?」
「そうでございます」
「そんなこと、可能なのですか?」
小さく頷くと、彼はわたしにやや青みがかった同じ色のスーツを着た乗客を見るように言った。
彼らはわたしと目が合うと小さく手を挙げ、剣城の知人であることを示した。その手を挙げた人間にはスーツの男性、女性だけでなく、カジュアルな学生に見える女性の何名かも含まれている。彼らは私たちの座っている側の席だけでなく、対面の座席の半分近くを埋めており、さながら車両の三割程度の人間が彼の知人だというドッキリを仕掛けられたかのようだ。
「あ」と思わず声を上げてしまう。
そういえば今まで気にしなかったが、確かにいつも同じスーツの人間が視界の端々に目に付いた。それはここが剣城コーポレーションの地元であり、そこで働く人間が多いからだ、としか考えたことがなかった。
「それじゃあ社員の方なんですか?」
「ええ、そうです」
「しかしそれも今日までです。明日から彼らは別の会社の人間となり、我々の手から離れていってしまいます」
「倒産……」
「はい、左様です。端的に言って資金が尽きました」
「すべて仕事だった、と?」
「そうでございます」
彼は戸惑うことなく頷いて見せたけれど、わたしはその所為で酷く頭の中が揺すられる。いくらか胸の辺りに悪寒の小さな塊のようなものが生み出され、生唾を一つ呑み込んだ。
「あの、意味が分かりません。そもそもどうしてわたしなんかに?」
「ある方のご依頼でした」
剣城の言葉は何故か過去形だった。
「その“ある方”って?」
「光朗様でございます」
その名前に、正直覚えはない。
「光朗様の遺言なのでございます」
「遺言……ですか」
「はい。そうでございます。全てはあの方との約束なのです」
そう言ってから剣城はまだわたしの記憶がおぼろげな頃の話を始めた。
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