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自分といずれ夫婦関係になる予定である男性と、彼女が逢瀬している光景を、目の当たりにしたとして、特別負の感情に見舞われることはありませんでした。自分の髪は炭のように黒く、声を聞きたくなることも、道ですれ違ったとして、気づかれないことでしょう。そんな私ですから、そうなるのなら、そうなのだろうと納得できてしまうのでした。
だから初めこそ驚きはしたものの、私は冷静でした。私が彼女たちをじっと見ていれば、彼女は私に気が付き硬直しまして、私は男の方が気が付く前にその場を去りました。
親に言いつけてしまおうとも思いません。私にはあの男に対してどうもそのような感情があまりなかったのでございます。彼女に怒りを覚えるより、彼女の男に選ばれた、婚約者の方に腹を立てる気持ちの方がよっぽど強くありました。
視線を感じられようになったのはそれからです。彼女の席は私よりも後ろにありますから、先生に指名された時はいつも以上に緊張して、体育で袴をブルマーにすることをじっと見られることも、居心地が悪く思いました。
その行動を辞めさせたく思いまして、私は声をかけるべく近くに寄るのですが、猫のように物陰に隠れ、さっさと走り去ってしまうので、思いあぐねました。そんなことを繰り返して一ヶ月ほどでしょうか、突如彼女が学校に来られなくなりました。
気にならないと言えばまるっきり嘘になります。ずっと前から、それこそ彼女が、私と婚約関係にある男性と逢瀬する以前から、視界の中にいたのです。気にならないわけがありません。だから、私はお見舞いと称して、先生に彼女の家を教えてもらいました。
「御免ください」
彼女の家は普通の古民家よりも豪邸でした。
戸を叩くと出てきたのは、彼女によく似た女性で、瞬間的に母親だとわかりました。けれども、彼女のように柔らかな空気は纏っておらず、ピリつく、酸素が薄く感じられました。
「ハナさんは、いらっしゃるでしょうか」
視線が頭の天辺から足の先まで、そして再び頭までじっくりと見られますと、着いてくるよう促されました。長くギシギシ鳴る縁側を進み、最も奥の小さな部屋の前に来ました。まるでこの家でこの部屋だけ、切り離されているように感じられました。
女性は無遠慮に襖を開けます。
「貴方にお客様ですよ」
髪を結わえてはいない、寝巻き姿の彼女が顔を出しました。私を目にした彼女は、喉の奥に指を突っ込まれたように、口を開けたまま放心して、その姿も可愛らしいと感じました。
そうそう、先生に家を訪ねた時に聞いた話ですが、どうやらある学校では、セーラー服というものが制服になったそうなのです。それは胸当てに白い錨、紺サージに赤いラインの入ったデザインで、可憐な彼女には今の制服である袴よりも、そちらの方が似合いそうだと想像したものです。彼女がふわふわとスカートを翻す姿は可愛らしいことでございましょう。私たちが卒業する前に、学校の制服がセーラー服に変わることを望みます。
「お帰りになる際は好きに庭を通りください」
はっと我に変える。私たちだけが取り残されてしまいました。歓迎をされていないことは目に見えて理解ります。いえ、今は置いておきましょう。
「ハナさん、中に入ってもよろしいですか?」
「は、はい!」
彼女は慌てて布団を畳もうとするものだから、私はそれを止めます。具合が悪いのならば寝ていて構いません。
「このような姿をお見せしてしまい、申し訳ありません」
「いいのですよ、病人は甘えるべきですから」
「いいえそれだけじゃなく……申し訳ありません」
どうしたことでしょう、ハナさんは、深々と床に額をつけて謝るのです。
「もう会いませんので、安心してくださいませ」
そこで私は彼女の言いたいことが理解りました。しかし、それはすっかり忘れてしまうほど、どうでも良いことでした。
「そのことはいいのです。私は貴方が学校に来ないものだから心配になって先生に聞いて来たのですよ」
「いいえ、よくありません。私、貴方が羨ましくって、想ってもいないにも関わらず奪うような真似をしてしまったのです」
「羨ましい……ですか?」
先程、彼女がセーラー服を着る姿を見てみたいと思いましたが、それは決して叶うことのないことを私は知ります。
「私は死ぬのです」
腎臓の病気なのだと、すっかり諦めた表情で、鈴の声で静かに言いました。
「でもあのお医者様きっと薮医者ですわ、だって言われた余命は先日過ぎたもの、学校は一度倒れてから禁止にされてしまって、どうしても行きたくて裏口から度々行っていたのです。でも知られてしまったからにはもう行けない、退学の手続きもしていることでしょう」
家の付き合いで婚約が決まることが多い世ですが、昔から身体の弱い彼女は、異性と話す機会もなく、腎臓を悪くしてからはお友達すらもほとんどいなかったそうです。
「それでも……いいのです。あの男何食わぬ顔で私に話しかけるのですよ。そんな男だって先に知れて運が良かったですわ」
「千代子さんも、彼のことを想ってないのですか……?」
「婚約者というものは、そこまで憧れるものではないのですよ。確かに仲の良い方も多くいらっしゃいますが、私はそうではありません」
「それでも、結婚はしなくてはいけないのですか?」
「そうです」
「それは……かなしいですね……」
「決められたことですから」
長い沈黙が訪れる、言わない方が良かったことだったでしょうか。私はあまり嘘が得意ではないので、後から後悔することが多いです。
「ねえ、千代子さん、また来てくれませんか。私もう死ぬまでお医者様と家族にしか会えないの、お話がしたい」
この私と? 顔を上げると、彼女は庭を指さしました。
「庭の、あの木の向こうに裏口があります、私いつもあそこから抜け出していたの。あの人たちは滅多にここに訪れませんから大丈夫」
嫌われていないという喜びと、この家に必要とされてないような物言いがとても悲しく思いました。
「千代子さんがそんな顔をする必要はないわ。ここは静かで良い部屋よ。丑三つ時に歌っていても誰にも怒られないもの」
そうして彼女は微笑むのでした。
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