ひつじが一匹

10/16
前へ
/152ページ
次へ
 道枝くんは、天使のように穢れなく整った顔の表情を柔らかくして訊ね直した。賢い子だなあ、と思う。  沢山の語彙を引き出しにしまっているだけでなく、それを自由自在に出し入れする柔軟さを持っている。その場に応じて、ユーモアや距離感を調整できるコミュ力DJ。その一方で誰に対しても平等な距離感を保とうするあまり誰とも親しくなれなくて、誰にでも合わせることができない私の能力値の低さといったら、もう。  だけどそんな大人失格な私ごと、まるっと愛してほしいと思う。たしかに傲慢でしょうけど、あのね、大人ってみんなそうじゃない? 腕が長くなるにつれどんどん高い棚に上げすぎて、いつのまにか誰の手も届かないところにまで来てしまった。  こんなの、もう恋愛なんてできっこないね。別にしたくもないけれど。 「道枝くんの角ハイ、一口もらってもいいですか?」 「ああ、はい、どうぞ」 「よかったら、こっちも飲んでみる?」  小ぶりなグラスにうっすら付着した口紅を拭き取って渡す。交換してやってきたのは持ち慣れた大きくてごついジョッキだ。もうすっかり落ちている口紅の跡地を見つめながら、道枝くんが私を呼んだ。 「小林さん」  回し飲みとか苦手だったのかもしれない。強要したつもりはなかったけど、他人の口紅がついたグラスって確かにちょっと不気味かも。美少年って潔癖の気質がありそうだし。これは完全なる偏見だけど、あってほしい。  申し訳ないことをしたかなあと考えつつ、「はい」と返事をした。すると道枝くんは乾杯直後にして、すでにじんわり赤みがさした瞳でこちらに訴えかけてくる。 「軽率にどきどきさせないでください」 「はい?」 「僕のほうが後輩ですし今は仕事中じゃないですし、敬語、使わなくていいです」 「え、なに、どうされましたか」 「同じグラスに口付けるとか気まぐれにいきなり敬語を解かれるとか、なんかどきどきしちゃって心臓に良くないのでやめてください」
/152ページ

最初のコメントを投稿しよう!

277人が本棚に入れています
本棚に追加