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「そうですか。よかったです」
その週末、千佳子は佐野を呼び出した。佐野は千佳子から呼び出されるとは思っていなかったらしい。待ち合わせのカフェでざっくりと経緯を説明すれば、困ったように笑い、それでも「よかった」と言ってくれた。
「本当にありがとう。そしてごめんなさい」
「全然。僕だって、いい思いをしましたから」
千佳子はいい思いがなんなのかわからずキョトンと首を傾げた。
自分と寝ることがそれに当てはまるとは全く考えていないのである。
「…たとえ千佳子さんの気持ちがなくても、僕にとって確かに好きな人でした。あなたが拒否しないから、その優しさにつけ込みましたから」
「でもそれは私だって同じよ」
「そうですね。僕の知るあなたはいつも余裕で、彼の前であんな風に泣いたり拗ねたりするんだと知って、打ちのめされましたから」
佐野はどこか自嘲的に笑う。でもそれを批難することはできなかった。
千佳子はただ黙って視線を落とす。少し氷の溶けたコーヒーグラスの中身が量を増していた。
「…でも、楽しかったわ。これは本当よ」
「はい。知ってますよ。僕を虐めて楽しんでましたよね」
「…それはまあ、そうね。反応が可愛くて」
つい目を逸らしながら「少しやりすぎたかしら」なんて零せば佐野は肩を揺らして笑う。
「自覚、あったんですね」
「う…、まあ、そうね…」
「っ、ハハハハハハハっ」
佐野が眼鏡を外して目尻に浮かぶ涙を拭った。その涙が笑いすぎの涙かどうか正直わからない。でも彼がそれで許してくれるらしいので千佳子はただ笑われることでやり過ごした。
「もし、穏やかな時間を過ごしたくなったらいつでも連絡ください」
帰り際、佐野は無理に笑顔を作りながらそういった。千佳子は少し迷って「ええ」と頷き返す。
「多分、佐野さんと過ごす方が一般的には幸せなんだと思うわ。でも今の私には彼が大切なの」
「はい、わかってますよ。ただ、僕としてはせっかくの出会いなのでこれで終わりというのも寂しいな、と思いまして。でもすぐに友達なんて無理です。すみません」
ううん、と千佳子は首を横に振る。男女の付き合いなんてそんなものだ。だけど縁があって出逢った。これで終わりというのが寂しいという佐野の気持ちもわかる。
「…いつか、佐野さんに素敵な人が現れた時に、相談ぐらいはのりますよ。たとえば、ビール工場に連れて行くタイミングとか」
千佳子は冗談も含めて指摘した。佐野は泣き笑いのような顔で「ここでダメ出しですか」としょげる。でも本人も女性をリードすることに慣れていないことは自覚があるので「その時はお願いします」と頷いたのだった。
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