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「だって、一度も”好き”って言わないじゃない」
槇はこの道を歩く度に酔っ払いに絡まれてやり返す千佳子を思い出す。そしてその後食べた紅しょうがと七味で真っ赤になった卵まみれの牛丼をふたりで分けて食べたことも。
実はあの後、もう一度同じものを食べたくて同じように注文した。
でも一人で食べても全然美味しくなかったのだ。一回冷ましてチンするという同じ工程をまでふんだのに。
「…そうだっけ?」
下手くそな惚け方だな、と自分で言って苦笑した。千佳子はキッと目を吊り上げて怒っている。
「わたしのこと好きでしょ?」
「うん」
「ほら!!」
いつもこうだ。「うん」しか言わない。
槇もそれを自覚していた。そしていつか千佳子にそれを指摘されるだろうと言うことも。
そして、それまでは言わないでおこうと思っていた。だって言ったことなんかない。告白なんて無理だ。動物みたいにセックスだけしていれば楽なのにどうしてこう人間には言葉があるんだろう。いや、もしかすると動物にも彼らの中で言葉はあるのかもしれないが。
「でも一緒にいるだろ」
「いるけど!」
「セックスもする」
「するけど!!」
でも聞きたいのだ。槇の声で槇の言葉で。それを望んではいけないのか。千佳子は奥歯を噛み締めながら槇を見上げた。
しかし、千佳子はそれを言葉にできなかった。槇浩平はこういう男だ。大事なことは決して言わない。のらりくらり躱す男だと。初めからわかっていたことだ。ただ、そんな男もこうしてここまで教育したのだ。付き合って半年。間も無く出会って一年経つ。千佳子の目にまたぶぁあ、と涙が溢れた。
「…千佳」
「…なによ」
春を告げる冷たい空気が頬を撫でる。鼻の奥をツンと突くような冷気がまた涙を誘った。
「俺、お前を傷つけるって言ったよな」
千佳子の心臓がドキンと大きく鳴った。嫌な汗が吹き出してくる。
間違ったのだろうか。これ以上まだ求めてはいけなかったのか。千佳子は緊張しながら槇の次の言葉を待つ。
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