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駅に向かっていた足をふと止めた。自宅に帰ろうと思っていたが、もう一軒、槇が今居そうな場所を知っていた。そこだろうか。千佳子は踵を返す。
コツコツとアスファルトを叩くヒールの音がやけに響いた。
「お、いらっしゃい!」
平日のこの時間はサラリーマンでいっぱいだった。
千佳子は大将と目が合うとニコリと笑いかける。
「ひとりかい?」
「ええ。…来てます?」
千佳子は店内を見渡して槇の姿がないことに肩を落とした。
大将もそんな千佳子に苦笑する。
「今日は来てないよ。昨日は来たけど」
「…なるほど。すみません、出直します」
「はいよ!」
大将は快く返事をしてくれた。千佳子は陳謝して扉を閉める。
なんだ空振りか、と落ち込みながら駅へと向かう歩道を歩いていた。
その時だった。
「…!」
人混みに紛れていたが槇らしき人を見つけた。
槇は平均以上に背が高いせいで頭ひとつ分飛び抜けている。だからすぐに分かった。あの長身は槇だ、と。
ただ近くに同じく背の高い外国人が連れ立って歩いていたため千佳子は気づけなかった。槇の隣には千佳子より若くて可愛らしい女性が一緒にいた、なんて。
「あ、」
声をかけようと思った。だけどひとりじゃないことに気づいて千佳子は咄嗟に立ち止まる。後ろを歩いていた人が邪魔そうに千佳子を避けて通り過ぎる。
…なによ、あれ。
槇を見上げて話す女性はとても楽しそうだった。そんな女性に対して槇はどうでも良さそうな顔をしているが、まんざらでもないのだろう。その証拠に、女が槇のスーツの袖を掴んでいてもふり解く素振りはない。
途端に急激に頭が冷めていく。それなのに千佳子の心は槇と共に食べたもつ鍋より熱く煮えたぎっていた。
しかし千佳子には権利がない。槇に「その女は誰か?」と問いただす権利はがなかった。恋人じゃない。ただ都合のいい関係だ。要はその女と同列だった。ただ槇を好きだと気づいただけ。そして拒絶されただけだ。それならその女より序列は下かもしれない。
「…ふざけんじゃないわよ」
喉からこみ上げてくる感情を奥歯を噛み締めて蓋をした。
みるみるうちに目頭が熱くなる。悔しい、恥ずかしい。こんなふうに泣きたくなかった。
20代の頃はよく恋人と派手な喧嘩をした。束縛の強い彼氏。否、千佳子だってそれなりに束縛した。だって触れられたくなかったのだ。自分以外の女に触ってほしくなかった。誰よりも自分を優先してほしいし、たとえ食事に行くにしてもふたりきりなんて許せなかった。年を重ねていけばある程度その気持ちをうまく消化できるようになったけど、今はどうやり過ごせばいいか分からないぐらい千佳子の心はマグマがぐつぐつと煮えたぎっている。
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