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千佳子はたった今、上がってきた階段をヒールを鳴らしながら降りていった。きっと下にいる客にも声は聞こえただろう。それぐらい噛みついた自信がある。
(もういいわよ。もう)
失恋は新しい恋で癒せばいい。言いたいことを言ってスッキリすればあとは前を向くだけだ。それでもまだ胸がもやつくのは、ここが槇と出逢った店で、グダグダになりながら歩いた景色。朝日に眩しさを感じながらタクシーの中からぼんやりと何度自宅に帰っただろう。
その度に「何やってんのかな」と思いながらも槇と過ごした夜を思い出して胸を焦がした。めちゃくちゃで自分勝手なのに憎みきれないのは、槇はちゃんと千佳子との距離感を間違わなかったからだろう。
(そもそも理想とは全然違うもの)
強いて言えば、年上で身体の相性がいいということだけだ。
家事はしたくない、性格は雑、ズボラ。デリカシーがない。
(…そうよ。結婚したい男を探さないといけないのに)
こんな典型的なダメ男に沼っている場合ではない。千佳子にはタイムリミットがある。40歳。結婚するなら子どもは欲しい。でも本当に欲しいかと聞かれると正直わからない。自分が結婚して誰かと一緒に暮らしていることすらイメージがつかない。でも槇とは、なんだかんだと言いながらもソファーでダラダラしながら過ごしている自分達をイメージできたのだ。
_______っ、!
前のめりで早足に人波を縫うようにして歩いていく。少し俯き加減で歩いているせいか誰も千佳子が泣いていることなど気づかないだろう。誰とも目を合わせないように、この場から逃げるように大股で歩く。
_______っ!!
遠くから誰かに呼ばれた気がしたけど、千佳子は歩きながら横目で周囲をうかがってすぐに気のせいだと思い直した。
(来るわけないのよ。あいつが)
期待するだけ無駄だと千佳子は知っている。
あー言う奴は結局なんだかんだ自分の意見を貫き通すのだ。
千佳子だった数日後には「すげー勘違い女に追いかけ回されてさ」なんて話のネタになっているかもしれない。職場と自宅の間だったのもありとても便利だったけど、しばらくはもうこのあたりに飲みにこない方がいいかもしれない。
(もう一生顔も見たくない)
「千佳子さん!!」
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