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はっきりと聞こえた声は、期待していた声とは異なった。「一生会いたくない」なんて言っておいて、彼とは違う声を聴いて落ち込む自分が嫌になる。
「やっぱり、千佳子さん。…はや、って、何かありました?!」
はぁはぁと肩で息をしながら千佳子を追いかけてきたのは佐野だった。
佐野は千佳子の腕を掴むと「止まってください」ともう片方の手を膝に付く。
だがすぐに千佳子が泣いていたことに気がついたのだろう。ギョッとして掴みかかるように千佳子の両肩を掴んだ。
「どうしたんですか!?一体何が…!もしかしてどこが痛いんですか!?」
あまりにも支離死滅な佐野に千佳子は眉を下げた。佐野と話す気分ではないけど少しは笑う余裕があったようだ。
「…どこも痛くないわ」
「でも」
泣いてるじゃないですか。
佐野は千佳子の両頬を包むと親指や手のひらの柔らかい部分で溢れた涙を優しく拭った。
「…話したくないなら話さなくていいです。でも、このまま一人にはできないですよ。少し落ち着くところへ行きませんか」
ね、と小さな子どもに言い聞かせるように宥めた佐野は千佳子が否定しないことをいいことに手を取って歩き始めた。千佳子は叱られた子どものように俯いて黙ってついていく。
「…そいつ、誰だよ」
俯いて歩いていたせいか千佳子は佐野が元来た道を戻っているとは思わなかった。ここはいつもの居酒屋の近くの交差点だ。ちょうど信号が青になり横断歩道を渡ろうとしたところで後ろから腕を掴まれた。
「お前だって人のこと言えねーだろーが」
槇が苛立ちを露わにしながら千佳子を責める。千佳子が口を開こうとしたところで「パン!」と乾いた音が聞こえた。
「はい、ここまで。続きはどこかに入りましょう。えーっとあなたが、千佳子さんの想い人でいいですか?」
そう尋ねられると槇は「うん」とは言えなかった。そろりと千佳子に視線をやる。千佳子は不貞腐れた子どものように真っ赤になった目を逸らした。
「で、お二人の間に何かがあって千佳子さんが泣きながら歩いているところで僕は出会しました。佐野と言います。とりあえずどこかに」
結局槇と千佳子は数分前に出たばかりの居酒屋に逆戻りすることになった。佐野は「こんばんは」とナチュラルに会釈して店に入ると二人を追い立てるように席に向かう。
千佳子はとても気まずくなり「先ほどはすみませんでした」と大将に謝罪した。
「いーって!ただの茶だし、ほとんど槇くんが被ったからうちに被害はないよ!」
ハハハハハ、と笑う大将は懲りずにまた飲み物を準備してくれた。
今度は佐野の分も合わせて三つだ。
「で、えーっと」
「佐野と申します。先ほど千佳子さんが泣きながら歩いているところを見かけたのでどこか落ち着く場所を探していました」
「なるほど」
大将は新たな登場人物に驚きながらも佐野を受け入れた。もちろん内心面白がってはいるが、千佳子と槇のふたりがどう結論を出すかによってリピーターが減る。それは困る。
「平日だし、この時間だし、この部屋は使ってくれて構わないよ。あ、佐野さん。二人が殴り合いになったら止めてくれるかい?」
「う、腕には自信がないですが」
「見るからに喧嘩慣れしてなさそうだもんな」
大将が苦笑する。佐野と和やかな雰囲気を作っているのに、千佳子も槇もぶすくれたままだ。
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