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「硬いわね」
「文句言うならどけろ」
「いやよ」
居酒屋から槇の自宅までタクシーで五分程度だった。ふたりは大将と佐野に頭を下げてその場を後にした。佐野は「よかったですね」と眉を下げて笑ってくれたが、千佳子は佐野に謝罪しきりだった。後日きちんと改めて会うつもりでいる。
「冷たいわ」
「保冷剤だからな」
「ハンカチとかないの」
そして槇の自宅に来てそうそう、千佳子は真っ赤な目と腫れぼったい瞼をどうにかしたくて槇に「何か冷やすものを」と催促した。槇は冷凍庫から保冷剤を持ってきたが、包むものも何もなく直に当てている。それにぶーすか文句を言いながら千佳子は甘えるように槇の脚を枕にしてソファーに寝転んだ。
すっぴんも裸も見られているので今更泣いた後の顔など見られても平気だ。でもなぜか槇が畏まっているのか、千佳子から話しかけないと話が続かなかった。
「…もの好きだな、お前は」
槇は呆れるように千佳子を見下ろしながらそれでも嫌がることはなかった。
千佳子は脚が引かれないことをいいことに枕にしておくつもりだ。
「フリーランスのエンジニア、仕事は一応途切れずにあるんだろ?飯も作れて顔も悪くない。お前の好みは知らんが、B専でなければ十分だろ」
「そうね」
「あのな」
「でも仕方ないじゃない。私だってこんなの予想外なのよ」
千佳子は保冷剤で隠した目元からチラリと槇を窺った。槇は槇でまた溜息を吐きそうになりながらどこか堪えているようだ。
「結婚したい、のはしたいわ。でもそれ以上に好きになった人と一緒にいたいの。私は、…あなたと一緒にいるのが思っていた以上に楽しかったのよ」
千佳子は照れを隠すように身体の向きを変えた。槇に背中を向けて顔を隠す。
「卵と紅生姜と七味で真っ赤になったドロドロの牛丼を分けて食べたり、どーでもいい話をしながら缶ビールで乾杯したり。この年になるとね、物欲はあまりないの。ううん、あるけどそんなの自分で買えるし、買えるだけお金はあるわ」
槇は千佳子の話をただ黙って聞いていた。
そして背中を隠す髪を一房持ち上げる。
「でも、それを誰かと分かちあいたいじゃない。仕事で嫌なことがあった時、誰かに話を聞いてほしくなるし、人肌が恋しくなることもある。美味しくなくてもいい。同じもの食べて美味い、まずい、って笑って。そういうのでいいの。そういうのを一緒にできる人があなたならいいって」
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