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お腹の奥底に、ぽつぽつと染みていく何かがある。淹れたての紅茶を飲んだように熱く、それでいて妙な冴えを呼び起こさせるそれは、現実世界では知り得なかった奇怪な――魔の力。
血の流れ? と始めは思ったけれど、身体の中にそのための感覚器官があるわけもない。
ひとたび自覚すると、魔力はますます体に染み、お腹や胸から手足の先へと巡ってゆく。それは渇いた大地に雨が降り、幾条もの細流が作られていくようだった。
ラミアの魔力を使える。
緊張で背中がぞくぞくする。私は長椅子から腰を上げると、レグルスの痩身に隠れた大鏡へと歩み寄る。確実に声の届く距離に入り、しかし姿は見せずに、喉にローズレッドの爪先を添えた。
「撤退だ」
その声音を聞いた途端、レグルスが驚愕に震えた。
「な――」
「魔王閣下!? いらっしゃったのですか!?」
鏡の向こうにいる部下が、あからさまに狼狽えている。ちゃんと使いこなせた。魔力とは違う熱がふつふつと湧き上がり、私は拳を握りしめる。
ラミアの能力その一。一度聞いた他人の声を真似できる!
魔王の声は鶴の声だ。お父様の声を拝借すると、部下はそれ以上何も聞かずに頷いた。
「出過ぎたことを申しました! 当初の作戦通り、ここで部隊は引き上げます」
お父様、結構寡黙なところがある。多くを語らずとも、裏に高尚な考えがあるんじゃないかと思われがちで、みんな指示の通りにしてくれるのだ。
深く首を垂れているのか、少しの間が空いてから、部下は挨拶を添えて通信を切った。
再びレグルスと二人きりになる。お父様の信頼を利用し、レグルスを出し抜いた私は小さく肩を縮こめて、元のラミアの声で謝った。
「勝手にすみません」
「全くです。貴女にその権限はないというのに……まさかシャウラの件の意趣返しですか?」
「ああ。そう取ります?」
すっかり忘れてた。今日はレグルスの越権行為で、シャウラと引き離されたんだっけ。
レグルスは思いの外怒っていないようで、私はちろりと舌を出した。気の強そうなラミアの見た目だと、意地悪く見えるのだろうか。でもレグルスだって悪役の見目だしな。
私はふっと微笑んで、彼の前へ手を差し出した。
「ねぇレグルス。私たち、戦友になりましょう」
すでにお互い幹部であるとか、このときは忘れていた。大きな志なんて、今すぐには持てないけれど。私がラミアである限りは、彼の力になれたらいい。
レグルス。ラテン語で『小さな王』の名を持つ彼は、かつては魔界のほとんどを統べる準・魔王だった。
昔々、ラミアが生まれるよりずっと前は、魔界の中でも繰り返し内紛があった。それらを何度も鎮めてきたレグルスだったけど、ある日突然現れたサラデウス――今の魔王には敵わなかったのだ。
遠い昔、レグルスはお父様に負けている。高位魔族の戦いは転じて信頼を生み、彼らは永遠の主従関係を誓って、今こうして魔界の全てを掌握している。
お父様に負けても……この先何度人間に負けても、彼は絶対に挫けない。冷静沈着のようでいて、身のうちには誰にも汚せない、熱い使命感を抱いている。
そういうところ、凄く格好いいよ。
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