かれしになりたい

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 二葉に彼女ができたら、今までのように過ごすのは難しいだろう。  そのことがわからなかったわけではなかったけれど、あまりに居心地が良かったので、気付かないふりをして、蓋をしていたのだ。 「お鍋美味しかったですね。トマト鍋も、豆乳鍋も、もつ鍋も好きだけど、やっぱ豚しゃぶですよね」  夕食の食器を食洗機に全部突っ込んでしまうと、そう言って玲に笑いかける二葉の笑顔は眩しいくらいだった。  そりゃ会社の女の子達も騒ぐのも仕方ない。  今はこうやって一緒にいるけれど、明日突然二葉に彼女が出来ても全然驚くことでもない。むしろ至極当然のことのように思える。  濡れた手をタオルで拭う仕種まで様になっている彼を、ぼんやりと見つめた。 「金曜だからもうちょっと飲みます? それともコーヒーにします?」 「……甘いの飲みたいかも」  意識すると、なんだか口の中がさみしくなった。 「カフェオレにしましょうか。お土産でもらったチョコレートあるし」  そう言っていつの間にか彼の家にあった二人の色違いのペアのマグ。 玲のものが白で、二葉のは黒。ボーナスのときに一緒に買ったマシンでそのマグカップにカフェオレを煎れる。  甘いのが飲みたいと言った玲に甘いカフェオレを差し出してくれた。受け取ってソファに座る。  すると、すぐ隣。ほんの僅かに隙間を開けて二葉は座った。  触れあってないけれど、じんわり彼の温度が伝わるくらいの距離。 「この前可愛かった猫の動画、YouTubeに新しいやつ上がってましたよ」  そう言ってテレビにYouTubeの画面を映す。 「え、マジで?」 「うん。マジで」  画面に映るあまりの可愛らしさに思わず頬を緩めながら、カフェオレと一緒に動画を観る。  「やっばい。ほんと、可愛い。犬と猫が仲良しなのずるくない? 絶対可愛いしかないやつじゃん。もう一回観ていい?」    同意を求めて二葉の方を観ると。 「うん。 ほんと……めちゃめちゃ可愛いですよね。たまんない」  そう言った二葉は画面をちっとも観ていなくて、熱に浮かされたようにとろんとした目で玲を見ていた。  その視線に、どきん、と心臓が脈打った。  そう言えば、こういう二葉の瞳を見るのは初めてではない。そのときもどきん、としたけれど、そんなのは男同士でおかしいことだと玲は考えないようにしてきたのだ。  それなのに川越が男同士でも付き合ってるように見えるとかそういうことを言うから、 いつもみたいに蓋をすることができなくなっている気がする。  とろんとした瞳をいつもみたいにふぃっと躱すことができなくて正面から受け取ってしまった。  自分の瞳はどんないろを浮かべているのか自分ではわからなくて、怖い。彼の溶けた瞳の熱のせいで、蕩けているかもしれない。  誤魔化すようにカフェオレを飲もうと勢いよくマグカップに手を伸ばすと、大きな手がそっと上から玲の手を包んだ。 「え……」 「危な……そんなに勢いよく持ったらこぼしちゃいますよ」  そう言うと、熱い手が離れてしまった。  離れてしまった?  なんだよ、それ。そんなの何だかずっと触れてて欲しいみたいじゃないか。  彼の長い指がすっ、とスマホを操作するともう一度愛らしい映像がテレビに映し出される。  それなのに何だか頭に入ってこなくなってしまった。  可愛い動画が終わって二葉の指がまたスマホに触れると、玲の好きなアーティストの曲が画面に流れる。  ふわりと二葉の香りが香ったと思うと、玲がもたれるソファの背に二葉の長い腕が回された。  指先だけがすこしだけ、肩に触れたり、離れたり。  彼の腕にすっぽり収まっているように見えるけれど、彼の腕が置かれているのはソファの背凭れだから、腕の終点の長い指が触れてるのは玲の肩のはしっこだけ。  でもそこだけが妙に熱い。  甘い音楽が流れて、でもその音楽のリズムよりずっと速いペースで心臓が脈打つ。  空気が狂おしいくらいに、濃い。  苦しいのに、ここから今日は離れられない。  いつもみたいに逃げられない。 「玲さんがよく聴くから、俺もこの曲好きになっちゃった」  そう言った二葉の顔を見上げると、やっぱりとろんとした熱を孕んだ瞳。  知ってた。ホントは知ってた。でも温かで柔らかな温度の先の熱は、火傷しそうで知るのが怖かった。  いちど、その甘い熱に触れてしまったら、逃げられなくなったみたいだった。二葉から視線を外せない。  すると、笑顔が消えて、真顔になった二葉に瞳を覗き込まれる。  二人の間に流れる空気が熱くて、重くて、もっと濃くなる。  何か言わなきゃ、と思うのに、言葉が出てこない。 「玲先輩……」  だめ。 だめ。そんな声でなまえ呼ばないで。  ざっくりとしたVネックのセーターから覗く二葉の男らしい喉のラインが、何かを飲み込んだように波打つ様子が見える。  彼の香りがひときわ強く香ったみたいで目眩がする。  それから、吐息が耳朶をくすぐるほど唇を近づけて。 「もう十一時半過ぎたよ。もうすぐ十二時になっちゃうね……」  二葉の声が躯の奥に響いてぜんぶおかしくなっちゃいそうだった。  ばかみたいにびくり、と躯が震えた。 「今日は、帰らないの……?」 「……っ」  唇の端がわずかに耳の端に触れた。火を点けられたみたいに耳が熱い。  視界の端に映った時計は、長針と短針が今にも重なりそう。 「……そんなとろとろの目で俺のこと見て、十二時過ぎても帰るって言わなかったら、俺……俺……」   勘違い、しちゃうよ? いいの……?   唇は完全に耳に触れていて、直接流し込まれる吐息まじりの声に、 耳だけでなく、全身に甘い熱が回る。 「ぁ…… っ……」   ソファの背凭れに置かれていた腕が、玲の肩にゆっくり下ろされる。  柔らかで、甘くて、でも底がないぬかるみにずぶずぶとはまってゆく。   うるさいほど速いリズムを刻んでいるのは、ここまで聞こえないはずの秒針なのか玲の心臓の音なのか。 「ねぇ、玲先輩……ギュって、して、いい?」  もうだめだった。   今日は逃げられない。  逃げたくない。  甘いぬかるみに沈んで、息ができなくなるのは怖いけれど。  わずかにちいさく頷いた。 「……っ」   二葉の広い胸にギュっと引き寄せられた。  それから、唇が触れそうなほどに近づいて。 「やっぱ勘違いは嫌です……今日はちゃんと、答え合わせ、しましょう……」  低い声を奥に流さないで。 「こたえ、あわせ……?」  ようやく出た玲の声は甘いものがまとわりついて、喉が焼けそうだ。 「そう。俺たちの関係、俺の答えであってるか、教えてください……」  そう言うと、大きなてのひらが髪に潜って、耳を撫でた。 「玲先輩、俺、ずっと先輩のこと、好きだった……俺の、彼氏になってくれますか……」  言われた、瞬間。  自分はこの甘いぬかるみにぜんぶ沈みこんで、呼吸さえも奪われたいと思っていたのだと、はっきりと理解した。 「あ……う……」  玲の方が年上なのに。何て言えばいいかわからなくなった。彼女がいたことだってあるし、甘い雰囲気ははじめてじゃない。でもこんなに濃厚な空気は初めてで、 苦しくて、動けない。 「玲先輩……玲さん……、おしえて?」  肩に回っていた熱いてのひらが腰に回って、熱くてたまらない。唇の先が触れちゃいそうなほどの距離で、掠れた声が問う。  答えたら、唇が、触れてしまいそう。 「……大丈夫。難しくないです。さっきみたいにうん、って頷いてくれれば、それでいいから……」  熱い。多分、顔が真っ赤になってる。恥ずかしい。  こんなの、全然経験ない女の子が口説かれてるみたいじゃないか。  そう思うんだけど、声がどうしても出なくって、 二葉の胸元に顔を埋めたまま、ちいさく頷いた。  その瞬間。 「んんんっ……」  すぐそこで甘い吐息を漏らしていた唇が、重なった。  柔らかい感触のあと、驚きで開いてしまった唇の隙間から熱くて濡れたものが入ってくる。  それまで、寸前で待っていたそれが、箍が外れたみたいだった。  ちゅ、ちゅ、と濡れたリップ音が部屋に響く。  いつの間にかメロディは止まっていて、濡れた唇の音だけ。  優しくも強引に、大きくて居心地のよいソファの上に倒される。 「玲さん……っ好き……すげぇ、好き……」  待って、待って……そんな声出さないで……  溺れてしまいそうになった玲は、必死に二葉の背にしがみついた。
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