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いつもは塩な先輩が寒くなると甘えてくる話
うまくいかない。
朝食のトーストはテレビのニュースに気を取られている間に濃い焦げ茶色に変化していた。苦くて全部は食べられなかった。
そして家を出てから五分。今日は思ったよりずっと寒くて、薄手のジャケットを羽織って出てきてしまったことが大失敗だったことに気づく。寝る前に見た天気予報で、まだ十月なのに冬並みの冷え込みだって言ってたのだが、『冬並みの冷え込み』とやらの体感をすっかり忘れて軽視していたのだ。
「まじかよ……そういや冬って寒かったわ……」
当たり前だけどさ、だってこの前まで暖かかったじゃん。いや、むしろ暑いと言っても良かった。夏用のスーツでなければ汗がじっとり染みるくらいに暑かった。ゆっくりとうつろいゆく季節ならば自然に冬を思い出せただろうが、突然秋をすっ飛ばしてやってきた冷気に心も体も追い付かない。
だからせめて温かいコーヒーを買おうとコーヒーショップでテイクアウトしようと思ったら、ショップの入り口には長蛇の列が出来ていた。
あいつみたいにちゃんと店に着く時間考えて、モバイルオーダーしておけばよかった。
気分を変えるために音楽を聴こうと思ったら、ワイヤレスイヤホンの充電は切れていたし、下ろしたての革靴のせいで足が痛い。
電車は信号機のトラブルかなんかで遅れていて、会社の最寄り駅に着いたら靴擦れで痛い足で走らなきゃいけなかった。
会社に着くと、先日納品したシステムがトラブルを起こしていると取引先から連絡があった。どうやら俺が入力したデータにミスがあったらしい。
クレームは営業担当に入ったらしく、俺は取引先と営業部の両方に平謝りで、死に物狂いでシステムの不備を直した。
細かいことばかり気にして大事なところを間違うのは、本末転倒だと部長に叱られた。その顔、反省してるように見えないんだけど? と勝手に俺をライバル視してる先輩は半笑いで嫌味をぶつけてきた。うるせぇな。元々表情が変わりづらい質なんだよ。
忙しくてランチの時間のタイミングもとれなくて、自販機で買ったミルクティで空腹を凌ぎながら業務に追われる。
フラフラになりながら帰路に就いた。スマホをチェックしようとしたらワイヤレスイヤホンだけじゃなくて、スマホの電源までも落ちていた。なんで充電しておかなかったんだろう。今俺とあいつを繋ぐただひとつのものなのに。
いつもは嬉しい金曜日だけど、 あいつは遠方に出張中で、戻りは来週の火曜日。だからこの週末は一人で過ごさなきゃならない。
ついてない。疲れた。とっても疲れた。
薄手のジャケット越しの北風は、疲れた体にしんしんと染みた。寒い。早く帰って布団被って寝よ。
そうだ。あいつのベッドで寝たら少しはマシかもしんない。
靴擦れに貼る絆創膏とビールだけをコンビニで買って家に帰った。
現代の日本だし、加えて俺は立派な成人男子だ。それなのにひゅるりと吹き荒ぶ北風に、真冬にマッチを売ってるあの少女にでもなった気分にさせられる。
空腹と寒さと寂しさで泣きたかった。
ようやくたどり着いた我が家。2LDKのマンション。独り暮らしのときより少しだけ広いリビングは、今日の俺には広すぎて寒いかもしれない。ドアの向こうに待つ、寂しさと寒さを覚悟してドアを開けた。
ガチャリと玄関のドアを開けて、俺ははたりと止まった。
廊下の向こうのリビングが明るかったから。
え?
まさか。
だって。
火曜日になるって言ってたじゃん。
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