1章

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1章

「……何も出来なくて、本当にすみませんでした。貴方は最後、何を思って逝かれたのですか?」  遺体が横たわるベッドの横で、スクラブと白衣に身を包んだ俺は問う。答えが無いのは解っている。  奈落の底へゆったり沈んでいくような。何とも形容し難い無力感に空虚感。  全身にずしりと纏わり付く寂寥感を覚えながら、俺は時間の流れに身を任せている。今は言葉を発することすら億劫だ。 「死んだら、魂は何処にいくんだろう。死後は、感情も何もかも本当に無くなるのかな。無かったことになるのかな。だとしたら、幽霊や霊魂ってのは何なのだろうか」  一体どこに、俺がこの方にリハビリテーションを提供した意味があったのだろうか?   この方に俺は理学療法士として、何を回復したのだろうか?  この方に何を与え、対価のリハビリテーション料を頂いたのだろうか?  この方は何を思って『生命活動を続けさせる環境』を強要されていたのだろうか?  この方が歯を食いしばって『生きた意味』は、『幸福』はどこにあったのだろうか? 「――いや、オカルトを信じすぎか。仮にも科学的根拠に基づいて仕事をするリハビリテーション科が言うべき言葉じゃなかった」  リハビリテーションという言葉の意味するところは『全人間的復権』。  異端者と決めつけられ、拷問具が並べられた塔に一年間以上もの長きに渡って監獄された少女。  物理証拠も法的根拠もないままに、火炙りの刑に処された。時の権力者は捕虜解放の身代金を払えなかったのか払わなかったのか、そんな事はどうでもいい。  ただ、フランスの村で暮らしていた裁縫が得意な少女であるジャンヌ・ダルクが「フランスの救世主となれ」という神の啓示に従い必死に行動した結果、齢十九歳にして命を落とした。  彼女は本当に神の声を聴いたのだろうか。  声を脳が認識したとしたのなら、その声の主は本当に神だったのだろうか。彼女は何度も神や天使、精霊の声を聴き――その上で敗戦、捕虜になったという。  今となっては分からないし、彼女が亡くなった今となってはどうでも良いことだ。  結論ありきの裁判によって異端者と認定されてしまったオルレアンの乙女。 彼女の生涯の終え方は、余りに残酷だった。  人間としての権利など無いに等しかった。これ以上無い悪評を流布された彼女に、人間らしい生き方も最後も用意はされなかった。  しかし、彼女の死後二十五年が経過し再審が行われた。そして彼女は異端者であるとの宣告が取り消し無罪となり復権、五百年程後には聖人に列聖されたのだ。  そんなジャンヌ・ダルクが無罪であると判決を降した裁判にリハビリテーションは端を発する。  この時に行われた再審こそ、世にいう『リハビリテーション裁判』と呼ばれるものである。  つまるところ、リハビリテーションとは『再び適したものにする』、『再び相応しいものにする』という意味を持つ。  広義の意味で考えれば、犯罪者の更生訓練、失敗した者の復帰もリハビリなのである。  だが、現代の日本医療界においてリハビリテーションとは『基本的身体機能の回復を行うこと』、『再びできるようにすること』と捉えられている。  第一次世界大戦で負傷した兵士を再び戦場に早く送り出すための兵士リハビリテーションが分水嶺だったのだろうか。  長い年月を重ねるうちに原点である『名誉の回復』、『権利の回復』は失われた。  少なくとも、俺はそう思う。  そうでもなければ、日々俺の前で繰り広げられているのはなんだ。日々、俺がしていることはなんだ。まるで罪人を叩く地獄の鬼になった気分だ。  目の前の患者さんには『名誉と尊厳を持ち死ぬ権利』すらない。  背は胎児のように丸まり、身体中の関節が固まっている。  異様な格好から動かせない遺体。  きっと立派かつ必死にここまで生きてきた。子をなし育て生きてきた。  その最後の姿が、この姿なのか。  ご遺体の脇に家族が置いていった在りし日の元気な家族写真に映る人と、今、目の前で息絶えている人の姿は全く重ならない。  尊厳、権利、名誉。そんな美辞麗句や理想、臨床現場においては現実的ではない。  改めて問いたい。回答をくれるなら誰でも良い。 「一体どこに、リハビリテーションを提供した『意味』があったんだろうか? 俺は、患者さんの何を『回復』したんだろうか?……俺はなんの為に、痛がる患者さんにリハビリをしてきたんだ」  俺とジャンヌ・ダルクの死を見ていた民――或いは審問官や拷問官にどれほどの違いがあるというのか。 「やるせないな……」  手に取ったのは、置き去りにされた家族の写真。  どこかの温泉へ家族旅行に行った際に撮影した一枚だろうか。  孫を愛おしそうに腕へ抱き、しっかりと二本の足で地に立ち満面の笑みを浮かべている。  病床で寝たきり状態でも、この美しい写真を患者は見ていたのだろうか。  自分では顔の向き一つ変えることすら出来なかった患者は、ふと在りし日の写真が視界に入った時、何を感じていたのだろうか。  言葉を発する自由もない中で、一体何を思っていたのだろうか。  何を思って、この世を去ったのだろうか。 「――さっくん。何してるの?」 「雪……」  カーテンで閉じられ、遺体と俺しかいない空間に入ってきたのは、交際を開始して半年になる後輩理学療法士の多田雪(ただゆき)だ。 「ああ、この患者さんはさっくんの担当だったもんね……。あんまり気に病まないでね?」  ポニーテールに縛った黒髪を揺らしながら俯き、雪は俺を気遣ってくれる。  名は体を表すというが、彼女は雪のように白い肌と儚い表情をしている。そんな全体の雰囲気が、彼女を今にも溶けて消えてしまいそうな程に弱々しい存在に感じさせる。 「ありがとう、逆転移し過ぎないように気をつけるよ」  逆転移とは、ユングという心理学者が提唱した言葉だ。  治療者が対象者に非合理な感情を向けることだ。まさに今の俺と一致している。これ程に思い入れを持ってしまっては、医療者として中立的な立場でいられなくなるからだ。患者が痛がっても冷静に最善の施術を行えず、感情に振り回されてしまいかねない。正に未熟者だ。 「……雪、知ってるか? ここまで骨関節が変型して拘縮してしまった方を、どうやって棺に収めるか」 「え? 知らない……。でも、確かに普通の棺に収まらないよね、どうするんだろ……」 「折るんだよ」 「――え?」 「骨を無理矢理折るんだ。棺に綺麗に収まり、家族や近しい人と生前お会いした美しい姿でお別れできるように――折るんだ」 「……そんなの、初めて聞いた。さっくんはやったことあるの?」 「ああ……。男手が足りなくて駆り出された。普通は葬儀会社の湯灌で棺に収まるようにマッサージされる。でも、稀に湯灌でもどうにならない方も居る。身体が大きく変形しすぎて棺に収まらない人もいる。懇意の葬儀会社や繋がりのある上、そして遺族からも、どうか手伝ってと頼まれてね……」  骨が折れる感触、鈍く鼓膜を震動させる生理的に嫌悪する音。  生ある人なら激痛で顔を歪め暴れ出すであろう行為。  それでも、何1つ変わらないご遺体の表情。――マスクの下で青白く歪みきった俺の表情。  思い出すだけでも息が止まりそうになる。  綺麗に棺へ納める為、鈍く何度も響く音が今までの日々までも打ち砕く。リハビリをした意味や患者が苦痛に耐えた意味までをも。  まるで今までのリハビリなんて無意味だったんだと、最期に俺へ伝えるように。  伝わる音は、怨念が籠もってさえ聞こえた。  一折り一折り、耳から骨伝導で全身へ伝えるように。  破砕音が骨の髄から臓腑まで伝わり――心まで壊していく。  忘れない。忘れられる訳がない。 「……本当に気をつけてね? さっくんは優しすぎるから、患者さんに感情移入しすぎないか心配なんだよね」 「ああ、自分でもヤバいとは思ってるんだけど……気質だからね。直そうと思っても、中々思い通りにいかなくて。――ってか、俺は別にいいんだけど、さっくん呼びでいいのか? 病院ではバレるから隠すんだろ?」  雪はハッとしたように口を開いて、辺りを見廻す。  勿論、カーテンしか視界には映らない。だが薄布を隔てて誰が聞き耳を立てているか解らない。  そして一度誰かの耳に入れば、病棟内での噂は風より早く広まり、インフルエンザより厄介に蔓延する。それこそジャンヌ・ダルクが流布された悪評のように。  何しろ病院という狭い空間で生きる職員にとって、面白おかしい人の話というのは、最高の娯楽だ。ピラニアの魚群に血を流した鳥を落とすように食いつきがいい。  尾鰭が付いてあること無いこと拡散されることも自明だ。既に婚約済みだとか、浮気相手だとか身体だけの関係だとか。  過去にもそう言った仄聞は耳にした。  病棟内だけでなく、院内での実例を挙げると枚挙に遑がない。  当然、俺達の関係も例外ではない。  もし誰かにバレれば部署管理者の耳にも入り、トラブルを避ける為に配属先の病棟も別々にされるだろう。  そういった背景があるため、俺達の関係は職場ではあくまでただの先輩後輩関係を装っている。 「そうでした。失礼しました、藤堂郷流(とうどうさとる)主任! それはそうと、次の患者さんが藤堂さんがまだこないってエレベーター前で呼んでましたが……」 「……ああ、もうそんなに時間が経ったか。すぐに行くと伝えてくれる?」 「はい。それでは……」  激励しようとしてくれたのだろう。  主任という功績を積んで得た役職を主張しつつ、彼女はカーテンを閉めて去って行った。  痩せ細りながら体中の自由を失い、苦しそうな表情で最後を遂げた患者と、在りし日の元気に笑う患者の姿。俺はもう一度、二つの姿を見比べて写真を棚に戻す。 「お世話になりました。……ご冥福を、お祈りします」  俺は一礼し、次の患者のリハビリへ向かう。  ここからは、また次の患者と平時の対応をしないといけない。暗い顔も見せられない。  元々無表情な俺だが、マスクで口元を隠し、明るく見えるよう目尻だけでも下げた。少しは好青年に見えるよう整えて次の患者の元へ向かって歩みだした。  エレベーター前に行くと、伝えていたリハビリ開始時間にはまだ数分あるにも関わらず――。 「すいません、お待たせ致しました! それでは、今日も一緒にリハビリしていきましょう!」 「おせぇよ! テメェで言った時間も守れねぇのかッ!」 「すいません、次からはもっと早くお伺いしますね」  ――先程までの表情なんて嘘のように笑顔を作る。
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