1章

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 雪のアパートまでは徒歩で三十分程度。そこまで辛い距離ではない。  お互い職場近くにアパートを借りているものの、雪はまだ新人と言っても過言ではない。  家賃等の関係から、駅とも職場とも少し離れた僻地に部屋を借りている。対して俺は、職場まで一駅。駅まで十分圏内という好立地だ。夜間料金が上乗せされたタクシーを使うほどの金銭的余裕はないため、夜道を歩く。夏の夜の空気は、心地よくて好きだ。  歩いていると、スマートフォンが震え出した。見ると、母からの通話連絡だ。こんな時間に、と同時に文句言われるんだろうなと憂鬱な気分で通話をとる。 「はい……」 『メッセージ見たなら連絡返しなさいよ、薄情者! お父さんも心配してたんだから、ねぇ!』  スピーカーモードで話しているのだろう。父の『ああ。でも声を聴けたし、もういい』という低い声が聞こえてきた。 「……時間が時間だし、明日の朝返そうと思ったんだよ」 『嘘仰い。あんた、そう言って何日も既読無視するじゃない』 「いつでも返信が早い母さんと違ってね」 『そうよ。あんた携帯をなんの為に携帯してるの。さっと返事できないなら携帯の意味がないじゃないの』 「まあ、そりゃそうなんだけど……。色々とやることがあってさ……」 『郷流……声に元気がないけど、ちゃんとやってる? ご飯、食べてる?』  母というのは鋭い。ちょっとした変化に気が付く。親父は母の言葉で気が付いたのか、バサリと新聞が机に置かれる音をマイクが拾った。 「ちゃんとやってるよ。……今も、星を見ながらのんびり散歩して雪の家にご飯食べに行くところ」 『そう。こんな深夜に女の子の家に、ね……。今度ちゃんと挨拶させてね。――あ、お父さん?』 『郷流。雪さんを泣かせる真似はするなよ。普段は情けなくても良い。いざという時、好きな女性を護れる男になれ』 「わかってるよ。二人とも、毎回それだな……」 『そりゃあ、息子のお付き合いしてる女性だもの。会ってみたいわよ。……ねぇ、郷流? あんた本当に大丈夫なの?』 「何が?」 『声が元気ないのもそうだけど、前はもっと沢山喋ったじゃない。それこそ、五月蠅いぐらいによくしゃべってた悪ふざけしてたから……。職場で上手くやれてないのかなって心配になるのよ。なんだか実の息子なのに、就職してからのあんたは母さんが知ってる郷流と別人みたいで……』 「それが大人になるってもんでしょうよ。雪の事と良い、心配性になったな。やっぱり歳か」 『あんたが全然家に帰ってこない上に、雪ちゃんを連れてこないからでしょ! だいたいあんたは昔っからー―』 「ああもう、今は説教はいいから。説教とかもう聞き飽きたから!――じゃ、家付くからまたな」 『あ、待ちなさ――』  母の声の途中だが、俺は通話を切った。  本当に雪の家の前に着いたからというのもある。だが、大切な担当患者が亡くなり、普段通り上司から沢山説教された上にサービス残業した深夜だ。  やっとできたプライベートの時間にまで、両親の説教を聞きたい筈がなかった。  悪いとは思いつつ、スマートフォンをポケットに入れようとすると母からメッセージ通知が入った。『雪ちゃんによろしく。迷惑掛けちゃダメだめだからね! それと、今度帰ってきた時は何が食べたい?』と書かれていた。  返そうかとも迷ったが、どうしても憂鬱でメッセージを返す気にはなれなかった。急ぎの要件でもないし、メッセージは後日返そう。そう思い、俺は雪の家のインターホンを押した。 「――いらっしゃい! さっくん!」  モニター付きインターホンで俺の顔を確認した雪が、嬉々とした表情と張り上がった声音で玄関扉を開けてくれた。 「雪……。近所迷惑になるから声を潜めよう」 「あ……ごめんなさい。さ、準備出来てるから入って入って!」 「ありがとう。お邪魔します」  一DKの室内にお邪魔させて貰う。女の子らしいというか、全体的に淡い色調でファンシーさを感じられる調度品。収納にも困るだろうに、室内には所々に俺とのツーショット写真や贈りものが飾られている。いつ来ても、少し照れるものだ。  ソファーに座って休んでいると、目の前のローテーブルにミルクティーが出されていた。御礼を言って有り難くいただいた。甘さが疲れた身体によく染みる。この辺りも、配慮して紅茶を選んでくれたのだろう。本当に良い子だ。俺には勿体ない。 「お待たせ、さぁさぁ~っ。まずは一品目!」 「え、まずは? おい、雪。確か、『ちょっと作り過ぎちゃった』。だったよね?」 「そうだよ? ちょ~っとだけ、作りすぎちゃったの」 「だい~ぶの間違いじゃないか? むしろ、明らかに出来たてに見えるんだけど」 「バレたか。さっくんが来るのにちょっと時間あるから、いくつか作ってみたんだ。さっくん、いつもまともに食べてないでしょ? 栄養つけて欲しくて、さ」 「雪……。心配掛けてごめんな。それと、ありがとう」  心からの感謝を込めて雪の頭を撫でる。甘える猫のように気持ちよさそうに目を細め、すり寄ってきた。ずっとこのまま、癒やされていたい。そう思ったが、折角の料理が冷めてしまう。撫でる手を止めると、名残惜しそうに可愛く不満をアピールしていた。 「それもいいけど、今はご飯だろ? 折角雪が作ってくれた料理だ。ベストなうちにいただきたい」 「あ、そうだね! じゃ盛り付けて持ってくるから!」 「いやいや、そこは俺も行くよ。こんなに素晴らしいものを作ってもらって、更にはふんぞり返って座っている訳にもいかないだろう?」 「え~いいよ。休んで欲しいから作ったんだから、座ってて!」 「いやいや」 「いやいや」  互いに譲らず我先にと競いながらキッチンまで来ると、雪が俺の顔を見てふふっと笑い出した。 「どうしたんだ? 突然笑い出すとか、酔っ払ってるのか? 酔っ払ってる脳味噌は、こいつか?」 「わ、わ。御免って! 頭揺するのは止めて~アホになる~」 「はいはい、じゃふざけずに盛り付けていこうか。俺はこっちのやるから、雪はそっちを御願いしてもいいかい?」 「了解です。……でも、さっきのは本当に笑ったんじゃないよ。嬉しかったの」 「ん、嬉しかった? どういうことだい? あ、我先にと譲らずキッチンまで来た俺の頑固さにってところかな?」 「まぁ、それもあるんだけどね。やっぱさ、職場ではさっくんあんな感じ絶対出さないじゃん?」 「そりゃそうだろう。医療現場であんな頭おかしそうな行動している奴がいたら、そいつが病院に入院すべきだ」 「いや、まぁそうなんだけど! でも家とか偶にデート行けたときのさっくんって、ちょっと変で面白くて、よく喋るから! だから、久しぶりに本当のさっくんが見られたな~って嬉しかったの!」 「本当の俺、か……。どっちも俺であり、公私を分けているだけのつもりなんだがなぁ。でも、確かにそうかもな。職場では常に時間と業務に追われているから軽口を叩く暇もない。迂闊な事を口にして混乱させるわけにもいかないから、言葉選びにも慎重になる。ましてや医療現場で今みたいにおちゃらけるなんてもっての外だしなぁ」 「そうそう! 今みたいな感じっ! 心の声っているか、考えてる事が全部ダダ漏れみたいな! それが嬉しいんだよ~。私の前だけの特別! みたいな感じがして」 「俺は昔から普段はこんな感じだったけど、しかし考えてる事が全部ダダ漏れって……もうちょっと良い表現は無かったのかな?――でもまぁ、そりゃあ雪は特別だしな」
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