1章

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「特別……。さっくん……嬉しい」 「そういう雪だって、家では別人みたいだよ。頭のネジが何本か抜けてそうだし、甘えただしなぁ。とてもじゃないけど、職場で見るキャリアウーマン多田雪って感じはしない。なんなら、あれは別人じゃないかと思うぐらいだ。いや、むしろ詐欺だな、詐欺」 「そりゃ職場でこんなだったらヤバいでしょ。ほら、女は表の顔と裏の顔があるって言うじゃない? 家と外では全然違うんだよ! 職場は戦場で家では、ふにゃあってね!」 「ふにゃあってなんだふにゃあって。……でもまぁ、確かにあの緊迫した職場だったら戦場と言いたくなる気持ちはよく分かる。きっと必要に迫られた結果、職場での雪が作られちゃったんだろうな……。――よし、盛り付け終了」 「はい、私も終了! どう、綺麗に可愛く盛り付けられたでしょう!?」 「ああ、本当に見事だね。この後、小皿に移して崩すのが勿体ないぐらいだ」 「ああ~。またそういう身も蓋もない事を言う~。悪い事を言うのはこの口かっ!」 「ふぁいふぁい。ろめんって。ふちふぉひっはらないで。……ふう。ほら、俺の口を引っ張って遊ぶのも良いけど、冷めちゃうから。いい加減に運ぼうか」 「はいは~い! あ、お箸持ってくるの忘れた!」 「安心しろ、俺が二人分持ってきたからさ。はい、座った座った」 「さすが、できる男は違うなぁ~。やっぱ主任だなぁ~」  からかいながらも、雪はソファに腰掛け、俺が隣に座るのをちょこんと待っている。  眼をキラキラさせて待つ雪に思わずふっと微笑みながら、隣に座らせて貰った。 「それじゃた食べようかっ!――頂きます」 「はい、頂きます。――うん、凄い美味しいね。ありがとう、雪」 「そう言ってくれると嬉しいですねぇ。もっと食べてね! おかわり沢山あるからっ!」 「ああ、文字通り沢山あったのはさっきこの目で――……」  おかわりをよそりにリビングに駆けていく雪の姿と、母の姿が重なった。  幼い頃、友達と遊んで腹を空かして帰ってきた俺にご飯を作ってくれる母の姿とだ。 「……雪。そういえば今度、母さん達が会いたいってさ」  両親が会いたいと言っている。そう言えば重く感じられるかもと今まで言わなかった。それでも、何となく口から出てしまった。雪は嫌な表情をするだろうと思った。しかし、それは杞憂だった。 「さっくんのご両親!? 私も会いたいって思ってた! さっくんはどんな味が好きかとも知りたいし!」 「ああ、そうだったの……? 嫌だなぁ、とか気が重いなぁとか思わないんだ?」 「ちょっと緊張はするけど、嫌ではないよ!」 「そっか……。意外だな。じゃあ、今度お互いの休みがあったら調整しようか」 「意外って何~! ね、やっぱ手土産とか持って行った方が良いよね。何にしよう!?」 「別にいいよ、そんなの適当で」 「よくないよっ! そういうとこはちゃんとしなきゃ! さっくんがうちの実家に呼ばれたらちゃんとするでしょう!?」  そう言って、スマートフォンをイジりだした。ディスプレイを見ながらああでもない、こうでもないと言っている。手土産選びにインターネットへ掲載された情報を用いて考えているのだろう。 「当たり前だろう、俺だぞ。調べに調べ抜いて評判のいい菓子折を持って行くな。縁起をかついで割れずにみんなで分けられるものを選ぶ。あと、少し変化球で地元の名産お菓子も一緒にかな。そして格好はクリーニングしたてのスーツ、磨きぬいた革靴、ビシッとしたネクタイというのも欠かさないだろうな」 「あ、それ! その手土産いいなぁ。やっぱお菓子だよね!――え、ていうか私もスーツ着てった方がいいのかな!? こういうの初めてだからわかんないんだけど!」 「雪は適当な部屋着で良いと思うぞ。自然体で可愛いし。あ、でも頭のネジ抜けてると思われるかも」 「もう、本気で聞いてるのに! いいもん、自分で調べるからっ」  本当に暖かい時間だ。談話しながら心のこもった手料理を涙目で頬張りつつ、俺達は楽しい食事を終えた。  本音を言うならば、泊まっていきたかった。雪が言うように、久しぶりに素の自分を出して誰かと話せたようで心が弾む。社会人になってから、殆ど感じなくなっていた感情だ。  本来なら、こうしてオンとオフを切り替えるのだろう。そしてそのバランスこそワークライフバランスというものなんだと思う。  だが、悲しい琴に今の俺にはオフに時間配分を多くする余裕はない。  明日の勉強会資料もまだ作っていない。  期待してくれている若手を裏切りたくなかった。先輩としての義務を放棄したくなかった。  最後まで可愛く帰宅を阻止しようとする雪を説き伏せ、俺は来た道を戻る。  帰路は楽しい思い出と暖かさで、余計に夜風が気持ちよく感じられた。幸せな気持ちでシャワーを浴び、お休みと感謝のメッセージを送りソファーに腰掛けパソコンで資料を作成する。  資料作成が終わると、記憶媒体に移して作業は終了。襲い来る微睡みに、坑がえなかった。  そうしてソファーで寝落ちすると、また出勤の時刻がくる。  出勤する足で脳内に抱える事はいつも一つ。  『射幸心』だ。自分の幸福。他者の幸福。幸せになりたい。幸せにしたい。  そもそも幸せとは一体なんだ?  生きている意味って――なんなんだ?  答えの出ない哲学的問答を脳内で繰り広げている内に、今日も職場に着く。 「藤堂さん、おはようございます。今日もよろしく御願いします」 「おはよう、よろしくね。――はい、今日の資料データね」 「ありがとうございます!」  勉強会グループ創設者である眼鏡をかけた後輩男性に徹夜で作ってきた勉強用資料を渡す。  理学療法士として自分がやっているリハビリテーションが正しいのかわからない。何をしていいのか分からない、いまいち納得できない。そんな若手に向けて有志が企画した勉強会の朝の部。  科長にそんな悩みを相談した若手が「それなら藤堂君とかに言えばいいんじゃない?」という一言で発足したものだ。  任意参加の上に、むしろ休むよう促しているにも関わらず、十人を越えるセラピストが――全体で言えば八分の一にも満たないが、意欲的に参加して向上心を見せてくれる。  始業開始時間まではまだ一時間以上ある。  俺の用意した資料で基礎を固めた後、実際に今日、若手達が施術する患者に対しての科学的分析と個人的なアプローチの提案をしていく。 「成る程……藤堂さん、ありがとうございます!」 「ああ、全然大したことは言ってないよ。効果判定の結果は、また後で教えてね」 「はい! 絶対相談します!」  雪の憧憬の眼差しに、俺は応えられているだろうか。  腐っている内心を上手く覆い隠せているだろうか。 「――藤堂君さ、やり過ぎじゃない? 君は別にいいけど、無理強いとかしてんじゃないの? 組織って事とか考えてくれないと困るんだよね」 「はい。すいません」 「足並み揃えてくれないと他の人の迷惑だから。君だけの問題じゃないんだよ」 「すいません」 「それしか言えないの? まぁ別にいいけど」  朝の勉強会に関して、上司――科長の叱責が始まった。
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